先日ブログに書いたタウンミィーティングについて、現在様々な事実が明らかになりつつあります。その詳細はまだ不明ですが、私は、事の本質は、「政府が国民を欺いた」ことよりはむしろ、「霞ヶ関が政府を欺いた」ことにあると思っています。
タウンミィーティングは、そもそも、「政府が国民の意見を聞く事」を目的にしています(勿論その為に、政府が自らの立場を国民に説明することももう一つの重要な目的です)。「国民の質問内容」を聞くべきは一次的には聴衆でなく政府なのです。政府は、自らの施策を改良・修正する為の情報として「国民の質問」を必要としているのであり、「質問内容に賛成が多かったから国民も賛成している」という形で「政策の正当化の手段」として「国民の質問」を必要としているわけではありません。又実際、政府・自民党も「国民の質問」を、そういった「政策の正当化の手段」として表立って使ってきてはいません(「議論を深めた」と言う形での間接的な使い方はされていますが)。問題は、政府が自らを正すために得なければならなかった情報を、本来政府の手足となるべき官僚が、「政府にとって耳触りの良い形」に操作していた事にこそあるのだと、私は思います。
かつて帝政ロシアで、女帝エカテリーナ2世が国内視察を行った際に、総督ポチョムキンは先回りして美しい「視察用の村」を作って帝を迎え、この村は後世「ポチョムキン村」と呼ばれるようになりました。総督ポチョムキンは実際有能な実務家であり(有能でなければそもそもこんな村を作れるはずもありません)、この女帝の治世は安定したものだったといわれています。しかし、この「ポチョムキン村」が直接の原因だったかどうかはともかく、帝政ロシアは、西欧列強が国家の近代化を急ぐ中、皇帝の専制と側近の専横の間を揺れ動くことに終始し、近代国家を樹立することなく、ソビエト革命で滅びました。
私は日本の官僚機構が優秀であることに、疑いを持ちません。しかし、「タウンミィーティング問題」は、その優秀さが、自らを監督する政治に都合の良い情報を与えることで、本来監督者と被監督者の間にあるべき政治と行政に、馴れ合いの構造を作ることに費やされている事を象徴的に示しているように思えます。それは長い眼で見て、決して日本の為になりません。優秀な霞ヶ関の力を、「ポチョムキン村」を作ることではなく、時代に即した新しい日本を創るために使わせること、それこそが政治の責務であり、その為には政府はこの問題を徹底的に調査して再発を防がなければならないと、私は思います
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