先日、フセイン元大統領が処刑されました。彼の死には、多くのことを考えさせられます。罪状は「人道に対する罪」で、大統領として独裁政治をしいた時代の粛清が、根拠となりました。
彼が多くの政敵や国民を残忍な方法で処刑したことは良く知られており、「因果応報」と言う意味で、彼に「同情」は感じません。しかし、民主化を志向している現イラクの惨状をみると、彼は「必要悪」であったのかもしれないと言う思いは、沸きます。独裁時代には殺されるのは政治に関与する「少数の支配層」若しくは「抵抗者」で、例え納得のいかないものであっても、とりあえず「殺される理由」はありました。その「独裁者」を取り除いて「民主化」を志向した結果もたらされたものが、「多数の一般庶民」の「理由なき死」では、フセイン氏ならずとも、裁判の欺瞞性を問いたくなります。又フセイン氏は実は宗教色の薄い世俗的政治家で、イランイラク戦争、湾岸戦争と戦争への道を突き進むまでは、国内の産業の振興、教育の普及、宗教的迷信の打破に一定の貢献をしています。アフガニスタンからのソ連軍撤退が軍閥の群雄割拠を招き、その事態を収集できたのはイスラム原理主義集団のタリバンのみであったことを考えると、イラクの政治的混乱が収まるとしても、次に現れる政権は極めて宗教色の強いものになる可能性が高いでしょう。その政権下で一般国民がフセイン政権下よりも幸になるのかどうかは、正直判断に窮します。
私たちは「民主主義」と言うものを当然のことであるかのように思っています。しかし、これがきちんと機能すると言うことは実は非常に稀有な恵まれたことであると思います。これを守り続けるためには、政治に関わるものが民主的プロセスを真摯に実行することと、出来るだけ多くの国民が自分なりの方法で政治を判断し、監視することが必要でしょう。私は自らの政治活動の中で、これを実行し、訴えて行きたいと思っています。
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