3月9日、長岡の国際交流協会のパーティに出席しました。私のテーブルはALT(語学補助教員)の方がたくさんおられて、久しぶりに英語で「パーティ」を楽しみました(いつも出ている「政治パーティ」はなかなか「楽しむ」というわけにはいかないもので、妙に新鮮でした・・・苦笑)。
さて、国際交流というと私達日本人はどうしても「英語が苦手で」と思いがちです。私自身アメリカに行った当初は英語で大変苦労しました。しかし、自分自身がそこそこ聞けて話せるようになってから気づいたのですが、実のところ日本人は「英語の聞き取りと発音」つまり「英語の音」が苦手なのであって、そこさえクリアしてしまえば、英語自体はほかの民族と比べて全然下手ではなくて、むしろ上手といってもいいと思います。逆にラテン系の人や中国系の人は初めてアメリカに来たような人でもものすごくべらべらしゃべっていて、「あいつら何であんなに英語がうまいんだろう」とコンプレックスすら感じるのですが、これまたしばらくして自分が「英語の音」になれてみると、「あいつらべらべらしゃべっている割に文法とか間違いだらけじゃないかよ」ということに気がつきます。
そしてこの「英語の音」は私のように大人になってから何とかしようとすると、ものすごく労力と時間がかかる上に所詮ある程度以上にはならないのですが、小学生中学年以下であれば、教えさえすれば全員が難なく完璧な発音と完璧な聞き取り能力を身につけることができます(ボストンの日本人の家庭の多くで、パパ、ママが英語で苦労している横で、お子さんは完璧な発音で英語を話していました)。私はこれからの時代、是非子供たちには、公教育の場でこの「英語の音」を教えてやるべきだと思います。
公教育における早期の英語教育に対しては、「そんなことをすると日本語が下手になる」「日本人なんだから日本語を教えれば十分」等々の反対意見があります。勿論日本語がまだよくできないうちに「言語」としての英語教育をあまりに熱心にやると、日本語も英語もきちんと話せないという事になる可能性はあります(私自身はあまりそうは思いませんが)。しかし上述したとおり、重点的に行うべきは「音」としての英語教育で、これは基本的には「ドレミファソラシド」を教えるのと大差ありません。これで日本語能力が落ちるというのは、杞憂にすぎるのではないでしょうか。
また、私が子供の頃、「海外生活」は憧れの対象でしたが、いざ自分が大人になってみたら、「同級生の半分以上が一度は海外生活をしたことがある」という時代になっていました。次の世代の子供たちは、ほぼ間違いなく、「ほとんどすべての人が、一度は海外で生活したり、外国人と仕事をしたことがある」という時代になると思います。「日本人だから日本語で十分」というのは少々時代錯誤でしょう。第一たった今まさにこの新潟5区で、「英語を話す養鯉業者さん」「オランダ語を話すユリ農家さん」が活躍していて、相当数の人が一度や二度は海外旅行に行った経験があるわけですから、「外国語は話せるなら話せた方が遙かに世界が広がるし、人生が楽しくなる」ことは、多くの人が実感しているところだと思います。
そして、実際多くの人がそう思っているからこそ、かくも多くの英語教室が建ち並び、多くの子供たちが英語を習っているのだと、私は思います。この状況で小学校での英語教育を否定した結果もたらされるのは、「塾に通わせる 家庭の子供は英語ができ、そうでない子供は出来なくなる。そしてそれが大人になったときのその子供が選択できる仕事の幅や人生の楽しさに大きな影響を及ぼす」と言う「新たな格差」なのではないでしょうか。
ほんの少しの努力で、全ての子供たちが、将来世界中で人生を楽しむことが出来るようになるために、全ての小学校で「ドレミファソラシド」や「サクラ、サクラ」を教えるように、「英語の音」を教えることを、私は強く提案します。
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