ずいぶんとマイナーな記事ですが、終戦時の日本人少女の朝鮮半島からの逃避行を描写した小説が、アメリカで論議を呼んでいます。マサチューセッツ州を始めとするアメリカの複数の州がこの小説を推薦図書としていることに韓国系の父母が反発し、リストからの削除を求め、本国政府まで口を挟む状態になっています。これは基本的にはアメリカ社会の問題であって日本が口を出す事ではありませんが、この小説に関する韓国および、アメリカの韓国系社会の反応には正直失望を覚えます。
韓国社会は、事ある毎に「過去を直視することが真の友好の為に必要だ」と日本に「正しい歴史認識」を求めてきました。わたしはこの意見それ自体に賛成しかねるのですが、かりにこれを認めるなら、その原則は、当然日本人だけでなく、韓国人にも当てはまるべきものだと思います。一般に思われているのとは違って、日本の朝鮮半島支配は、「日本国内」として本国と原則的に同じ法律に基づいて行われ、一般市民への無法状態での暴行・略奪は存在しませんでした。それでもその統治が実質的に差別的だったのは事実であり、その事実を日本は認めなければならないでしょう。しかしそれと同時に、満州・朝鮮半島から敗走する日本人に、一部の韓国人が国際法にも国内法にも反する略奪・暴行を行ったのもまた事実で、韓国はその事実を、直視すべきです。
またそれ以上に大事なのは、当時日本が韓国を加害したとか、それに対して韓国が日本に復讐をしたかということは、徹頭徹尾「当時」の話であって、今いる私たちについての話ではないということです。我々が過去を直視することから得るべき教訓は、「日本人は残酷だ」でも「韓国人は残酷だ」でもあるはずがなく、「人は時として−殊に戦争において−残酷になる」であり、「それゆえに戦争は全力で避けなければならない」であるべきでしょう。
「どちらがどちらをやった」と言うことに拘泥する歴史認識に、日本も韓国も別れを告げるべきときだと、思います。
はじめまして、長岡在住のじんと申します。 しばらく前からブログを拝見させていただいておりました。 まったく賛同できる意見やらこういう見方もあるのかというご意見を読み、やっと我が地元にも期待できる政治家が出てきたな、と嬉しく思っています。 彼の国の件に関して、うわっ面を飾ったような友好関係は必要無いですね。 友人関係というものは原則対等なものです。 実際には軍事力・経済力などの力関係で完全に対等ではないですが。いくら昔いじめたことがあったからって、いつまでも謝罪と賠償を求め(それもやってないことまで大げさに捏造までして・・・)、たかってくるような奴とは早く縁を切った方がいいと。 個人的には友好よりもいっそ一度ハッキリ敵対した方がいいんじゃないかと思ってます。 それに半万年(5千年)の歴史を持つ(自称)あの国の国民が、脳内の妄想でなく歴史的な一級の資料を用いて、ちゃんとした自国の歴史を直視できるのかはなはだ疑問です。 長くなりましたがこれからも応援します。 次回の選挙、あの自称主婦感覚の持ち主に負けないように頑張ってくださいw
じんさん、コメント有難うございます。 韓国、中国との関係は、日本にとってとても難しい問題です。ただ、海外に行く痛感するのですが、中国人はそれほどではないのですが、韓国人の行動様式は日本人と瓜二つです。友人づきあいをすると、共感できる部分も非常にあります。ところがその個人間の付き合いにおいてさえ、「歴史問題」「国家問題」が「触れてはいけない棘」のようになってなんだかいつも居心地が悪い感じになります。私はこれが非常に残念で、いつかは解決したいことだと思っています。 じんさんのおっしゃるとおり、私はその為には、どちらかがどちらかの主張を一方的に認めることではなく、お互いに言いたい事を言い会える環境を作ることが必要だと思います。イギリス人とフランス人も相手の悪口を言い合っていますし、隣国同士と言うのは中が悪いのが普通ですから別段国全体で「仲良し」になる必要も「共通の歴史認識を持つ」必要もあるとは思えません。しかしそれでも、国家としてお互いに尊重しあえて、個人としてひとたび友人関係になったら、冗談交じりで悪口を言い合える関係でありたいと私は思います。私はその為に、国家としての日本政府も日本人個人も、相手の主張や立場を認めたうえで、言いたいこと言うべき事を粘り強く相手に伝える続けるべきだと思います。 尚戦争に関しては、自らが責任を持って行ったものではない以上(戦争に直接関与した方々は既になくなっています)、現在の日本人が贖罪意識を持つことは不要だと思うのですが、「世界の現状を冷静に分析せず、集団内部の論理や、不合理な精神論や、盲目的な国粋主義に基づいて国家を運営することで、日本国内と世界に、いかにとんでもない被害をもたらしたか」については、よく考えて教訓とすべきことだと思いますし、政治に携わる者の一人として肝に銘じて行きたいと思っています。
そうですね、おっしゃりたい事はよくわかります。
「敵対」はちょっと言葉が強すぎる表現だったかも知れませんが、ただ現状を見ると韓国や中国に対し主張すべきことを主張をすると、自然とそのまま敵対関係になってしまうようです。
今のところ日本側が妥協するような形で敵対関係になるのは避けられているようですが、そのたびに国民の中での嫌韓・反中感情が醸成されていってるようです。
誰だってやってもいないことで一方的に悪役にされ、我慢を強いられるのはストレスが溜まるものです。
なぜ一方的に漁業協定無視の違法操業されても拿捕出来ないのか、なぜ自国の漁船が韓国籍の船に当て逃げされて死者が出ても、日本のメディアは報道しないのか。
「第18光洋丸の悲劇」
http://www.geoc
じんさん、コメント有難う御座います。 「相手を認めたうえで、あらゆる手段を使って粘り強く相手を説得する」と言う意味で、私はじんさんの意見に同意します。そして、あくまで「説得の手段」として、必要であれば拿捕等の物理的手段、そして更に必要であれば武力を行使することを、政府は選択肢からはずすべきではないと思っています。 「法治」や「平和」が、是非とも実現されるべき価値である事に異論のある人はいないでしょう。しかし「法治」も「平和」も何の裏づけもなく維持されるものではありません。国内で法にのっとって治安を維持する為には、法を犯した場合最終的にそれを罰する警察権が必要です。それと同じように、国家間においても、国際法にのっとって平和を維持する為には、国際法に違反する行為があった場合に、それを物理的に阻止する武力が絶対に必要になります。そのような武力行使は国連軍が行うことが理想ではありますが、その崇高な理想はいまだ遥か彼方にあります。そうであれば、現実を見据えた上で、自らの国家の平和は自らの力で維持するのが、主権国家の責任であると私は思います。 このようなことを言うと憲法9条とのかかわりで異論がある方もおられるかもしれませんが、私は「自衛の為の戦力の保持」を認めた時点で、それは自衛と国際秩序維持のための物理力と、最終的な武力の行使を認めたものであり(行使されない戦力など、そもそも保持する意味がありません)、現行の憲法9条に反するものではないと解釈しています。 クラウゼビッツの、「戦争は政治の延長である」ではないですが、「物理力と最終的な武力の行使は、国際法に基づいて行使される限りにおいて、正当な外交の一手段である」と私は考えます。
ごもっともです。 僕も平和を維持する為にも国民の生活及び安全保障を守るためにも「限定的な武力行使」は最低限必要なものだという意見です。 「限定的な武力行使」を行わず、相手の理不尽な上に理不尽を重ねたような要求を呑まされ続けたあげく国民感情が高まって「全面的な武力行使」にまで発展したのでは双方損害が大きすぎます。 日本国内はともかくとして個人的には、現実の国際社会は今なおクラウゼビッツの唱えた原理によって動いていると思っています。 クラウゼビッツの『戦争論』が『孫子』をインスパイアして書かれたように、『原理』というものは二千年の時を経ても変わらないものですから。 結局のところ僕個人の意見ですが、今のメディアは国益を考えず、中国と同盟を結び今一度アメリカと争う方向で国民をミスリードしているように思われます。 彼らの言うように戦前の軍部が間違った方向に国民をミスリードしたというなら、今彼らがやっているものはなんなんでしょうか? お答えしずらい意見を書いて申し訳ありません。 これで終了します。 一市民のたわいない意見にお付き合いいただきましてありがとうございました。
じんさん、コメント有難う御座います。 現在のメディアはずいぶん自虐史観というか自虐国家観に染まっているとは思いますが「中国と同盟を結び・・・」と本気に考えている人は、流石にそれほど多くないように思います。私には、比較的シンプルに、「日本の非を認めることと、戦争を絶対的に否定することこそが、知的で進歩的なことである」と信じ込んで、そこで思考停止しているだけのように見えます。 因みに私は旭日旗とそっくりな社旗を有する某新聞社の記者に、「流石にその辺、どうなんですか?」といういかにも日本的な質問をしたことがあります。それに対する回答は、「いやーーー、その辺は私達も分かっているんですが、上がなかなか変わってくれませんしねぇ・・・。この路線を愛する固定のファンもいますし・・・」と言うこれまたいかにも日本的な回答が返ってきました。 結局のところこれこそが、じんさん御指摘の「旧日本軍とそっくり同じ構造」なのではないかと私は思っています。だれもがうすうすおかしいことには気づいているけれど、上司や同僚の誤りを表立って指摘することへの躊躇や過去へのこだわりがあってなかなか方向転換できず、そうこうしているうちに最終的にとんでもないところにたどりつく、そんな光景は、旧日本軍やマスコミに限らず、官僚組織でも、企業でも、大学でも、そして政治の世界でも、見受けられることです。それは和と一貫性を重んずる日本文化の一方の欠点なのかもしれません。 私は、調和を重んじる和の文化も、一端始めたことは一貫して守ろうとする武士道精神も、伴に守るべき素晴らしい文化だと思います。しかし、日常生活においては美徳であっても、組織として行うときは美徳でないことも、世の中にはあります。又安定した時代には望ましかったことが、変化の激しい時代にはふさわしくなくなることもあります。日本文化の良さと、そして恐らくはそれと表裏一体の欠点を認識した上で、冷静に現実を分析してその時々に最もふさわしい政策を実行する、そんな政治を実現したいと、私は思っています。
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