活動報告
今日は憲法記念日です。70年を迎えた憲法とともにこれからどう進んでいくのか、様々な議論がなされています。その中で、主に護憲の立場から「立憲主義(憲法は権力を縛るものだ)」という言葉がよく使われます。しかしその際、えてして「立憲主義は正しい」という事を前提とした立論がなされ、何故立憲主義が生まれ、何故正しいとされているのかの議論はなされていないように思いますので、少々漠然としていますが、私の理解を述べたいと思います。
中世ヨーロッパでは、絶対君主制が確立し、その権威は王権神授説で裏付けられていました。一方で中世のヨーロッパは、各地に有権者としての貴族がおり、また生産技術の向上とともに市民社会というものも形成されていきました。絶対王権と言いながら、王様があまりにも国民を抑えつけると、時に貴族や市民の反乱にあい、時に王様の首が飛ぶこともありました。それは社会全体にとって大きな混乱をもたらす不幸であると同時に、王様にとっても不幸でした。
その事態を解決する知恵として、王様の権限を制限することで市民の自由を確保し、それによって市民が統治を受け入れ、社会全体の安定が保たれる仕組みとしての憲法ができたのだと、私は思っています。
王様は、自らの権限の一部を放棄することによってむしろ、統治機構の安定を得ることができ、市民は、憲法によって得た権利を安定した統治機構の中で自由に行使することができるようになって、社会が大きく発展したのだと、私は思います。
この憲法システム-立憲主義の有効性は、その後の西洋民主主義国家の発展が実証しています。
昨今の憲法改正の議論中で、憲法によって、国民に義務を課し、国家統制を強めるばかりか、本来私的な領域においてまで、「あるべき姿」課そうとする動きがあります。私はそのような在り方は、憲法-立憲主義というものが出来た経緯に逆行するもので、国民の自由と権利を奪って社会の発展を阻害し、国民の不満を高め、長期的には却って統治機構の安定を失わせるものだと思います。
十分な国民的議論の中で憲法改正を考えるなら、私は是非、国家の統制を合理的に限定し、よりよく国民の自由と権利を保証するものであるべきだと思います。国家は、自らの統制を合理的に制限してこそ、より大きな発展が得られると考えるからです。
捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ 人々の 自由と権利が 国家なり
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