安倍総理の改憲メッセージ以来、「高等教育無償化」を憲法の条文に書きこむべきとの意見がにわかに議論されています。
既に何回か表明しているところですが、私は、憲法での高等教育無償化に反対です。
誤解していただきたくないのですが、私は新潟県の政策として「新潟県版給付型奨学金」を掲げて当選し、既にその制度設計に入っています。経済的事情に関わらず、その能力と意欲に応じて、すべての子供たちが十分な教育を受ける事ができる体制を作ることは社会の責務であると思います。きちんと財源を確保して、必要な子供に必要な支援がなされるしっかりした制度設計を行って立法措置を講じ、可能なところから順次高等教育の負担を減じていくことは、大いに賛成ですし、実際その取り組みを開始しています。
しかしそれと、憲法で「高等教育は無償」と書くことは全く異なります。憲法は崇高なものです。憲法に書いた以上、何を置いても、基本的には「高等教育」を「無償」にしなければなりません。それは本当にそんなに簡単で、本当にそんなに有意義なことでしょうか?
かつて日本には、「老人医療費無料」という政策がありました。1973年~1983年、高度成長を背景に、当時の田中内閣が70歳以上の医療費を無料にしたのです。勿論、「経済的事情に関わらず、高齢者は必要な医療を全て無料で受けられる。」ということそれ自体は、良いことです。誰も文句はありません。
しかし、「無料」の効果は絶大でした。何せ「ただ」です。70歳以上の高齢者は、それこそ擦り傷一つ、咳一つどころか、「日々の健康診断」という感覚で病院を受診しました。病院が高齢者のサロンとなり、高齢者同士で「〇〇さん今日病院に来ないね、どうしたんだい?」「ああ今日は風邪をひいて家で寝てるんだ。」と言う会話が交わされているという冗談が、リアリティを持って語られました。そして医師もまた、相手にとって負担がないという事でどんどんと検査をし、薬を処方し、新しい診療所や病院を開設して増え続ける高齢者の需要に応えました。
結果は、高齢者医療費の急激な増大とそれによる保険財政の圧迫で、これに耐えられなくなる事を危惧した大蔵省が主導して、老人医療費無料という政策は、10年で幕を閉じることとなりました。
「高等教育無償」も、これと似た現象を引き起こす可能性は高いものと思います。何せ「ただ」です。高校生の多くのお子さんが高等教育を受ける事を望み、大学進学率は現在の54%から、おそらくは80%近くまで跳ね上がるでしょう。そして勿論、現在の大学のみならず、様々な事業者が高等教育に参入し、その需要に応えようとするでしょう。大学無償化に必要な費用は、現在の大学教育で生徒さん達が負担している4兆円を大きく超え、10兆円近くに跳ね上がると、今既にいくつかの試算で予想されています。
それでも、その10兆円が本当に、まっとうな「高等教育」であり、生徒さん達の将来に非常に役に立つものであれば、いいでしょう。しかし、大学進学率54%の現在でさえ、率直に言って、九九やアルファベットを授業で教えている大学は存在します。高等教育無償化によって雨後の筍のように出てくる学校の相応の割合が、「高等教育」とは名ばかりのモラトリアム享受機関になることもまた、相当程度の確率で予想されます。
それだけではありません。「義務教育」は、例外はあるにせよほとんどの人は6歳~15歳の間受けるのですが、「高等教育」となれば原則時機に縛りはありません。「無償」ということなら、「今から一念発起して医学部を受けて医者になりたい。」「会社を辞めて研究者になるんだ。」という人から「定年退職後時間があるから、英文学を研究したい。」「趣味の絵画を本格的に習いたいから美大に入りたい。」という人まで高等教育を受けたい人は続々と登場します。そして、その需要にこたえる大学も、恐らく次々と出てきてしまうでしょう。そしてここでも、それらの教育が本当に「高等教育」という名にふさわしい質を備えているのか、単なる「教養教育」ではないのかという問題を抱えることになります。
つまり、国家の制度として無償化をした場合の影響は「ほぼ全員が、ほぼ同一の内容を、ほぼ同一の時期に、原則として1回だけ」受ける義務教育と、「個々人が、個々人の選択に応じて、様々な時期に、1回に限らず複数回」受けられる高等教育とは、全く状況が異なるという事です。義務教育である小中学校は当然、場合によっては学習指導要領で内容がそれなりに統一されている高校までの無償化は可能かもしれないのですが、それ以上の、大学を含めた「一律無償化」は、無償化による無制限な需要と供給の拡大(モラルハザード)を招き、日本の財政を大きく圧迫する可能性が無視できないほどに高いと私は思います(勿論これに対して、法律で無償化の対象を限定してモラルハザードを防げばいいという議論はありえますが、それはそれで、際限なく「違憲訴訟」が提起されるリスクを抱えることになります。)。
今、日本の経済は停滞しています。毎年毎年税収が増えていた高度成長期と違い、税収は40~50兆円で変わりません。予算は年々増加はしていますが、どうやっても100兆円近辺がMaxでしょう。モラルハザードによって膨張した高等教育の無償化のために10兆円を支出するという事はすなわち、今使っている予算を10兆円削るということです。簡単に「無駄を削る」という政党もありますが、本当に10兆円もの無駄を簡単に削れるなら、民主党は政権を失っていません。今ある予算の大半は、多少なりとも何かの役に立っているのであり、10兆円もの「無駄」を削るためには、今まで「有用」として公で払われていた両親の介護費用を、自らの医療費を、子供の幼児教育費や義務教育費を、皆が使う道路や橋の維持管理費を、突如「無駄」と断じて、それぞれがそのコストを自己負担せざるを得なくなるということです。
本心ではそれほど勉強をやりたくないお子さんが、無償だから通う大学でのんびりと九九を習うために、病気の誰かの医療費が削られることは、そんなに合理的なことでしょうか。
繰り返し私は、経済的事情に関わらず、その能力と意欲に応じて、すべての子供たちが十分な教育を受ける事ができる体制を作ることは社会の責務であると思います。しかし我々が未来を担う子供達に対して果たすべき責務はそれだけではありません。誰もが医療・介護をきちんと受けられる制度を作り、安全・安心に暮らせるインフラを整備維持し、豊かに働ける産業を育成することもまた、我々が果たすべき重要な責任です。
未来への責任を果たすためにこそ、私は、高等教育の無償化(負担軽減)は、他の様々な行政課題とのバランスの中できちんと確保された財源を用いて、できるところから、一つずつ着実に実行していくべきものだと、思います。その為に必要なのは、不断の行財政改革と適切な立法措置であり、神学論争的憲法論争に血道を上げる事ではありません。最後に申し上げたいと思います。
「ただより高い物はない。無い袖は振れない。まずできるところから始めよう。」
本当にそのとおりだと思います。安倍氏は、高等教育無償化がどのような影響を及ぼすのかに深く思い致すことなく(あるいは問題が起きたら、やめればいいや的なノリか)、ただ改憲を受け入れさせるための魅力的(と衆愚は思うだろう)付録として、揚げてみただけなのでしょう。
戦争法が施行され、実績づくりをさせられる自衛隊、政治家が政治家でなくなって市井の人となった時に共謀罪が自分にどういう影響があるのか想像しているのか疑問な説明姿勢など、昨今の政治情勢は憂鬱なことばっかりです。
教育、こと高等教育以上の教育内容に関してはいかなる権力の介入も百害あって一利なしと断ずる事が妥当だと思います。
スポンサーに教育を受ける側の自由な選択権が保証される事が一番重要です。
昨今の政府の怪しげな教育介入の下で無償化されても、逆に教育を受ける権利を人質に取られるだけで、国力としての国民の教養を徒に使えないモノにするだけかと思います。
まあそんな国でいいならそうだとカクギケッテイでもすればいいのかもしれませんが。
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