10月22日、自由民主党長岡支部50周年記念式典で、横田御夫妻の講演を伺いました。
ご夫妻のお話は、「切ない」の一言に尽きました。30年余り苦しんでこられ、今尚その渦中にある方のお話は、経験したものだけが有する説得力を持ちます。理不尽に娘を奪われた人の心の痛みがどれほどのものであったか、理不尽に連れ去られた恵さんのつらさはどれほどのものであったか、その悲しさは想像に余りあります。
その横田御夫妻のお話の中で、私にとってもっとも印象的だったのは、横田さきえさんが「同じ拉致被害者の増元るみ子さんのお父さんは、娘を取り返すことなく亡くなられる直前でも尚、『私は日本を信じているんだ。』と言っておられました。この『日本』は、『日本政府』だったのか、『日本国民』だったのか、それとも『日本人』だったのか、どうかここにいる皆さん一人一人が考えてください」と言う部分でした。
国家と言う巨大な存在の前に、個人は絶望的に無力です。それは、その「国家」が自らの意思の届かぬ他国ではなく「日本」と言う自国であっても、同じことです。「日本」が加害の意思を持ったとき、他国の国民どころか自国民さえも無残に傷つけたことを、私たち知っています。しかしその逆に、「日本」が自らの国民を守る意思を示せなかった時、どの様な悲劇が起こったかを、北朝鮮による拉致事件は私たちの眼前に突きつけています。
「日本」に裏切られたと言って良いはずの増元さんは、それでも「日本を信じる」と言い続けました。実際のところ国家に翻弄される運命にさらされた時、私たち個人には、「信じる」しか道はないのかもしれません。しかしそうであればこそ、如何に「日本」が巨大で御しがたいものであったとしても「日本を信じている」誰かの為に、「日本人」の一人一人が、「日本国民」の全体が、そして「日本政府」が、少しでも「日本」を良く動かすように全力を傾けなければならないのだと、私は思います。加害の危険も、被害の危険も、現実の困難さも見据えた上で、少しでも悲劇を無くす為に努力し続けること、それが「日本」の責務だと、私は思います。
長岡市民の一人です。 今回横田夫妻が来られるとの事で50周年記念行事に参加させていただきました。 正直拉致は自分とは関係ない・・・ 遠い世界のことのようにここ新潟県に住んでいても思っていました。 確かに小学校の登下校は集団登校だったりとか、帰宅途中の電信柱に拉致の件での標識が立っていたりとかで他の方よりは非常に身近には感じていたと思いますが・・・。 そんな中、横田夫妻の話は正直ショックでした。 実際にニュースで見ていたとき、見ていただけの時はどうしても他人事な気がしていましたが、ご夫妻を目の前にしてそのような思いは吹き飛んでしまいました。 正直、私たちには何が出来るかわかりません。それでも夫妻の気持ちを少しでも理解していただける方を勿論国へ、地方へ議員として送り出したいと思いました。 たいそうな意見があるわけではない私ですが、色々な意味で安心して暮らせる日本を作る事に少しでも協力できればと思っています。
長岡市民さん、こんにちは。自民党の講演会へのご出席、大変有難う御座います。 長岡市民さんもお聞きになっているとおもいますが、公演の中で横田さんは「最初はいくら訴えても聞いてもらえなかった。でも粘り強く訴えているうちに、次第に世論が盛り上がって、そして政治が動いてくれた。」と言うことを言っておられました。 私たちは国民の意思が国政に反映されるべき民主主義社会に住んでいます。現実の政治が時に国民の意思とかけ離れて運営されることもあって、「ひとりの力では政治を変えられない」と思われることもあるかもしれません。しかし、政治に携わってみると思うのですが、「世論」と言うものは一旦喚起されると、非常に強い力を持ちます。そしてこの「世論」は実際に「誰かが言い出すこと」と「一人一人が思い続けること」で維持されています。勿論「思い通りに」と言うわけでは全くないのですが、それでも確かに日本は、「一人一人の意思が政治に反映される道のある」民主主義社会なのだと、私は実感しています。 長岡市民さんが「安心して暮らせる日本を作る事に少しでも協力できれば」と思ってくださること、それ自体が、拉致被害者の救済を始め、本当に日本を「安心して暮せる国」にすることに、大きな力を持ちます。その思いを持ち続けてくださることを祈ると伴に、そこに携わる一人として、それに答えられる政治を実現したいと切に思います。
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