昨日「薬害肝炎一律救済法」が全会一致で参議院で可決されました。多少長いのですが、法案全文はこちらです(http://www.shug
この問題に関して、患者さんは「一律救済」と「国の責任と謝罪」にこだわってきました。人道上「一律救済」が望まれるのは当然です。また、血液製剤の危険性が明らかになった1977年(1974年に学術論文で初めて非A非B型肝炎の存在の可能性が指摘され、1976年にFDAによりFDAによりフィブリノゲン製剤の承認が取り消されました)以降について、国と製薬会社が大きな責任を負っていることに議論の余地はないでしょう。しかしそれ以前、血液製剤がまだ「万能の止血薬」だと信じられていた時代の国や製薬会社の責任を過度に強調することは、「薬による副作用の発生それ自体に責任を問う『発生責任』」という考え方につながってしまいます。それは人道的に見えて実は、「薬」そのものを否定して薬事行政の運営を困難にし、全体として患者さんの為にならない事態を招く危険性をはらみます。その意味で、国の責任を認めて「一律救済」を行いながら、「発生責任」を回避した今回の法案は、患者さんの意見と国の原則を折衷した力作といえると思います。
日本の新薬の承認は、思われているのとは違って実は「非常に慎重」です。それ故に海外で認可された新薬が日本ではなかなか認可されず、その薬を使いたい患者さん・お医者さんが困って自己輸入するという状況も生じています。「薬害に対して発生責任を問う」となったら、この承認がよりいっそう厳重になり、日本では新薬が出てから何十年もたたなければそれを使えないという事態が生じかねません(もし投与後30年たっても安全であることが分かるまで新薬を承認できないとしたら、あらゆる薬は30年間の治験を経た後でなければ認可されないと言うことになってしまいます)。それは薬害でなくなる一つの命を救うかもしれませんが、新薬を使えば助かる百の命を失うことになる可能性を有します。またそれ以上に、「薬害が発生したら、たとえそれが予見できないものだったとしても責任を問われる」となったら、それこそ「発生した以上どうやっても責任を問われてしまうのだから隠してしまえ」という発想が働いて、薬害の隠蔽が再発しかねません。そうなったら、救えるはずの多くの命が犠牲になってしまいます。「薬害が発生しても、それが科学的に予見できないものだった場合は、発生の責任は問わない。その代わり、細心の注意でその発生を監視し、それが明らかになった時点で即座に対処しなければならない」とするのが、薬害の被害を最小限にとどめる、もっとも現実的な方法であると、私は思います。
人間はいつか病気になり、やがて死する不完全な存在です。薬は、その不完全さを補いはしますが、結局の所不完全な人間が創った不完全なもので、必ず何らかの副作用を伴う上に、その副作用を投与時点で完全に予想することさえできません。極論すれば、あらゆる投薬は目の前の「病気の危険」と、これから投与する「薬の危険」のバランスの上に成り立っているのであって、一方だけをゼロにすることは不可能だといえます。憲法25条に定める「健康で文化的な生活」を実現するために、人道的、科学的かつ現実的な医療政策が求められています。
こんにちは。
初めておじゃまします。
私は、薬害肝炎問題に関心があります。こちらの記事を読ませて頂き、とても勉強になりました。有難うございます。
なお下のブログで、医師を志す管理人さんが「一律救済」の無理と責任追及の難しさについて述べておられます。お忙しいことと存じますが、一度のぞいて頂けたらうれしく存じます。
<白鳥一声>
http://8910-100
おじゃまいたしました。
最近のコメント一覧