先日のブログでも書いた柳沢大臣の「生む機会」発言に引き続いて、「健全」発言に野党が「子供がいなければ健全ではないのか?」と反発しています。前回の発言同様今回も言葉の選び方としてはどうかな、と思うところもあるのですが、それでも正直に私は野党の皆さんに質問したくなります。「本当に、大臣の発言がそんなにひどいものだと思っているのですか?本当の本当に、大臣の発言は、全く受け入れられないのですか?」と。
大臣の発言は、「若い人たちは『結婚をしたい、子供も2人以上持ちたい』という極めて健全な状況にいる。日本の若者の健全な希望にフィットした政策を出していくことが大事だ」というもので、別段「子供を二人持つのが健全で、それ以外は不健全だ!」と言ったわけではありません。又実際、若い人が「結婚したい、子供も二人以上持ちたい」と願っているとしたら、その願いは普通に考えて「健全」と評価されてしかるべきもので、まさかこれを「そんなことを考えるのは不健全だ」とは言えないでしょう。
勿論野党の方々の「子供を持つ持たないは個人の自由で国家が強制すべきでない」と言う考え方それ自体は、正しいと思います。しかし、自由ではあるけれど、社会全体としては子供を持ってもらったほうが望ましいこともまた事実で、この「望ましい」論まで否定してしまっては、最終的に「少子化で、何が悪い?」「日本人がいなくなって何が悪い?」になってしまって、政治が何を目指しているのかさっぱり分からなくなってしまいます。
深遠な哲学上の論争をするならともかく、現実の政治を考えるなら、「貧しいよりは豊かな方が良い」「日本人が消滅するよりは存続する方がよい」のは所与として、それを実現する為に「望ましい個人と社会のあり方」を考えるのは当然だと、私は思います(それを「健全」と呼ぶべきかどうかは別として)。その上で、強制ではなく、十分自由な選択肢を残した政策で「全体として」望ましい姿を実現することこそが「政治」と言うものでしょう。
少子化問題は、そもそも個人の自由と、共同体にとっての「必要性」と言う概念とがぶつかり合う、とても難しい問題です。だからこそ言葉の使い方には慎重であるべきですが、そればかりに拘泥して中身の議論が全くなされないのは、本末転倒でしょう。野党の皆さんが問題としているのが「言葉」だけの問題だとしたら、「そろそろそこから脱却して身のある議論をしませんか?」と私は呼びかけたいと思います。又、もし野党の皆さんが、少子化問題に絡む「共同体にとっての必要性」と言う概念を全否定したいのだとしたら、「それは個人にとっての哲学上の自由ではあるかもしれませんが、現実政治の否定であり、少子化問題解決の放棄です。」と指摘したいと思います。
もう民主党には、「揚げ足取り、ヤクザの言いがかり」、しか手段が尽きた、まともな政策論争も対案提出もできない、ということの照明ですね。 民主党は、もうすぐ自爆解散しますよ。 女性の人権を言うなら、民主党は、女性の顔面を殴打して大怪我をさせた木俣参議院議員の民主党復党やモナとの不倫を屋って、議員パス不正使用した細野代議士の件を追及するべきでしょう。 民主党は、なぜ政権奪取できないか、全く理解できないようですね。
柳沢大臣の発言は不適切ですがその背景に女性=機械という考えは見当たりません。話題が統計学に及び難しい内容になり分かりやすいように比喩を挙げたが例がヘタだっただけです。それよりも審議を欠席した野党の方が問題です。緊急性があるから補正予算が生じたはずです。野党の態度をマネするなら、いじめ問題に関心が無いのか!どーでもよいのか!になります。本来、与野党は牽制しあいより良い政治と社会を作るために存在しているはずです。国会が早くまともな論争の場に戻るといいですね。
やっぱりやってくれましたね!気体をうらぎりませんね! 自民党を批判しては自爆する民主党! 菅氏の、女性に対する侮辱蔑視暴言「生産性が低い」暴言を、野党、特に民主党の女性議員は、この暴言を民主党幹部が吐いたことを、どう 「落とし前」をつけるのでしょうね? まあ、無視してとぼけますよ。 だから、民主党には政権奪取できないんですよ!
民主党構成員は、あれだけ柳沢大臣の辞任を、職務放棄してまで要求してたのに、民主党の大幹部の監視の女性蔑視暴言「生産性は低い」暴言について、一切語らない。言い訳さえしない。特に女性議員が。 民主党は、かん口令をひいているんだろうね! 米山さん!こんな卑劣な民主党を、是非打倒してください!
ランランさん、無名さん、コメント有難う御座います。 民主党、審議に復帰しましたね。これがあるべき姿と言うものでしょう。菅さんの「生産性」発言は、大先輩に少々失礼かもしれませんが、「ね、この問題を真面目に話したら、どうしたってそういう用語をつかわざるをえないでしょう?だから詰まらない揚げ足取りはもうやめましょうよ」と言いたいところです。 少子化問題は、そもそも「人口集団としての増減」を考えるわけで、その中で「個人」と言うものは抽象化されて、個別の事情はひとまず捨象されます。「出生率」と言う概念はその最たる物で、そうでなければ一人の女性が一生の間に「1.25」人なんて言う半端な人数の子供を生ということはそもそもありえないわけです。学問や議論の為に、「集団としての女性」を均質な抽象的存在として扱うことと、「一人の女性」を無個性な存在として扱うことは全く別のことで、両者の議論を同列に扱うのはナンセンスと言うものでしょう。 因みに私が現在取り組んでいる「医療経済学」では、「いくら医療にお金をかけたら、トータルでどれだけ健康が増大して、それは国の経済にどれだけプラスか?そのプラスはかかった医療費に見合うか?」と言う議論が普通になされます。それは「集団としての」人の命に値段をつけていると言えなくはありません。だからと言ってこれを「目の前の一人の人の命に値段をつけている」ことと混同されて非難されたのでは、合理的な医療政策の立案は不可能になってしまいます。 再開された国会で、「冷静」な議論がなされることを期待します。
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