本日異業種交流会「二木会」で、雪国植物園の大原久治園長の講演「里山の自然と観光」を聞きました。
私は途中から参加したのですが、「雪国植物園では源氏蛍と平家蛍がともに自然繁殖していて、シーズンには千匹が一斉に光を放つとてもすばらしい景色が見られます。」と言うフレーズに大変興味を感じて、「街中でも繁殖は可能ですか?」と質問しました。すると、「浅いせせらぎを作ること、周囲で農薬を使わないこと、繁殖期に電灯の光を消すこと等いくつかの条件がありますが、それをクリアすれば、長岡の水質と空気で十分可能です。」とのお返事をいただきました。実際東京の「ホテル椿山荘」で自然繁殖の試みが行われる予定だとのことですので、長岡でも「大きめの庭園」くらいのエリアがあれば、街中で蛍の光を頼りに散歩を楽しむことは、十分可能なのでしょう。
現在日本のいわゆる「公共事業」は無駄の代名詞としてやり玉に挙がっています。しかし、日本に「豊かな生活を楽しむ十分な公共空間があるのか?」と言われたとき、私はまだまだ不十分であるように思います。「自然が豊かだ」と言われるこの新潟5区でも、「お風呂上がりに浴衣で蛍を楽しみながら散歩する」などと言う光景はついぞお目にかかることが出来なくなっています。それなら、例えば長岡駅前の大手通の横に、例えば信濃川の河川敷に、例えば魚沼の響きの森に、そういった環境を作って、誰もがそれを楽しめるようにすることは、とても意義深いことであると、私は思います。
日本の公共投資が、道路や箱物の例を挙げるまでもなく、多くの無駄をしてきたことは、言うまでもありません。しかし、そこで否定されるべきは、「何の為に、誰の為に、どうやって」を問うことなく、「今までと同じ、他と同じ」ものを作ってきたそのあり方なのであって、「公への投資」そのものではありません。「皆が幸せに暮らす為に役に立つものは何か」「次の世代の為に本当に残すべきものは何か」を真剣に考え、それを「どうやって作り、どうやって維持するか」までを考えて行う公共への投資は、決して無くしてはいけないものだと私は思います。常に、「よりよい社会」「より幸福な生活」「より希望ある未来」を作る、それが政治の役割だと、私は考えます。
最近のコメント一覧