ニュースの感想
昨日、衆議院を臓器移植法案改正案のA案が通過しました。様々な意見があろうかと思いますが、私もA案に賛成です。理由は「脳死は人の死」だと考えるからではありません。むしろ「脳死は完全なる人の死ではない」からこそ、私はこの案に賛成です。
マスコミでは「A案は脳死を人の死とするもの」と伝えられています。しかし、この法案は、
医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
一 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないとき。
二 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき。
と定めるだけで、決して「脳死は人の死」とは言っていません。「移植用に臓器を摘出する」場合に、摘出について「本人若しくは遺族の文書による承諾がある」時に限って、脳死者から臓器が摘出されるのであって、それ以外の場合には、つまり移植と無関係な状況や、本人からも家族からも文書による同意がない状況では、「脳死は人の死」とはなりません。つまり医学的に「脳死」と判断されても、これらの条件を満たさない限り延命医療はきちんと続けられ、死亡診断書も書かれないと言うことです。
私は要するにこの法案は、「脳死」という「生と死の中間状態」の存在を認め、「移植に関する本人若しくは家族の同意の有無」という主観的作用に従って、その「中間的死」を「死」若しくは「生」に振り分けるものだと考えています。そしてそれは、「死」というものの現実に、比較的合致しているのではないかと、私は思います。
「人は何時死ぬのか」それはとても難しい問題です。私達の細胞は、日々死と増殖を繰り返しています。もし仮に「自分の細胞の一部でも生き残っている限り人は生きているのだ」と考えるならば、子供は自分の細胞から増殖したもので出来ていますから、極論すれば私達は、子孫が残っている限り永遠に生きていることになります。又仮に、「脳の機能が不可逆的に失われたら人は死ぬのだ」と考えるのなら、私達の脳細胞は早くも20代には順次不可逆的死を迎えるのですから、「私達は日々少しづつ死んでいるのだ」と言えなくもありません。勿論両者は極端ですが、人の「死」は実は特定の一つの瞬間に生じるのではなく、この両極の間で徐々に決まっていくのだと、私は思います。そしてそれを決めるのは、結局の所「人間の気持ち」以外には無いのだと、私は考えます。
「脳死」、もし自分がその「中間的死」の状態になったら、私の細胞は生きていますが、私の意志は、既に失われています。「私の死」を決められる、「私の気持ち」はもう、そこにはありません。そうであれば、私は、「私の細胞達」の運命を「私の家族の気持ち」に委ねたいと思います(今は独身ですが-苦笑)。それは委ねられる家族にとっては勿論とても重い選択になるでしょうが、その重さを受け止められるのが、家族というものではないでしょうか(繰り返しますが私は独身です-苦笑)。そして出来ることなら、そのまま放置すれば脳死後短期間のうちにほぼ確実に死滅する「私の細胞達」には、移植によって必要とされる人の元に移り、そこで出来る限り長生きしてもらって、考えようによっては自分の一部でもある「人類種」の為に尽くしてもらいたいと思います。
この法案は今後参議院で審議されます。移植を必要としている多くの人たちを救う為に、そして私達日本人が、「移植による生」という大問題を外国任せにせず、自らそれと向き合う為に、十分な審議を尽くした上で、この法案が可決されることを期待します。
私は国会で審議している4法案は感心があっても、全くわかりませんでしたが、米山さんのおっしゃる事が良くわかりました。臓器移植法案改正案のA案 ぜひ、成立して貰いたいものです。
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