集団的自衛権の行使について複数のコメントをいただきました。いずれもポイントを突いたコメントと思いますので、稿を分けてお返事させて頂きます。
(1) 名無しさん、コメントありがとうございます。
意見の一致、光栄です。しかし一つだけ、私は異議があります。それは、「不服従で」若しくは「憲法9条で」と言う方々にも、非現実的ではあるにしても、そういうにはそういうなりの理由があるだろうということです。
私の記事「議論をするということ ~右手と左手をつなぎませんか?~(http://www.elec
それが現実的でないのは再三ご指摘の通りなのですが、一方で、軍や防衛の必要性を認める側も、変な美化をせずに、過去の日本軍の失敗をきちんと認めて改善策を提示するのが筋であるように思います。
意見の違いを言論で埋めるのは言うは易く行うは難いことで、何処まで行っても最終的なスタンスの違いは残るのでしょうが、大事な命を懸けて国を守る自衛隊員も、さまざまな負担をしてそれを送り出す国民の側も、なるべく多くの人が、納得とは言えないまでも了承できる、美化されたフィクションではない現実のシステムをつくるのが、政治の役割であると思います。
私のできることは限られていますが、何時かはそういう政治を実現できるよう頑張りたいと思います。
(2) mさん、コメントありがとうございます。
おっしゃるところが、まさにポイントなのだと思います。いろいろなご意見はあるでしょうが、私は、憲法も集団的自衛権も、基本的にそれは「道具」だと、思っています。道具は、同じものでも使う人、使い方によって、良いようにも、悪いようにも使われます。集団的自衛権が良い形で使われればそれは日本の防衛に役立ちますが、一方で、ご指摘の通り、イラク戦争のような大義なき戦争に使われたり、アフガン戦争のように泥沼の中で一般市民に犠牲を出す、悪い使われ方をすることもあり得ます。
では、どうしたら大義なき戦争、過剰な軍事力の行使による市民の犠牲を無くすことができるでしょうか?おそらくそこには二つの方法があって、その二つのどちらを取るかで、今意見が分かれています。一つは今まで通り、そう言った軍事行動には一切参加しないことで、クリーンハンドを保つことです。そしてもう一つは、あえてその行動に参加して、その中で、集団的自衛権の行使の適正化を図っていくことです。
私は前者の立場も、決して間違ってはいないと思います。人間にも国家にも、出来ることには限界があります。自らの能力に鑑み、事態を十分にコントロールできないなら、そこには手を出さないということも、責任ある立派な態度です。
しかし、今日本は、前者ではなく後者の立場-集団的自衛権を行使する立場に立つことを決めました。賛成する人の多くはその決定に歓喜していますが、実はこれには極めて重い責任が伴うことは、十分意識されていないように思います。
まずもって私がすでに書いたように、集団的自衛権の行使にはコストとリスクが伴います。私たちはそれを、十分にコントロールしなければなりません。そしてその上に、集団的自衛権を行使する以上、mさんがご指摘くださったように、その行使の「適正」にも、当然責任が発生するのだと思います。アメリカ若しくは国連が不適切な集団的自衛権の行使を決めようとするなら、時に私たちはそれに反対し、場合によっては不参加を決める必要があるでしょうし、既に行われている集団的自衛権の行使の場面で、過剰な武力行使があったなら、内部からその是正を求める必要もあるでしょう。それは、思っている以上に大変で、困難で、日本の自己変革を要する作業です。
私は現在の世界状況から、集団的自衛権の行使容認それ自体は、避けられないと思います。しかし本当のところ、どのようなスタンスで、どのような体制で、どのようなコントロールで、集団的自衛権と言う道具を用いるのか、どうやれば、日本にとっても世界にとってもこの道具を正しい方法で用いることができるのか、その方向性も手段も、全く決まっていないように思います。
今後の関連法制の整備を通じて実質的議論がなされることを期待すると同時に、最終的には、「この人達が、この理念で、この制度の下に、運用するのなら、日本の集団的自衛権は正しく行使されるにちがいない。」と信頼してもらえる制度と政治を実現することこそが、政治を行うものの務めであると思います。
繰り返し私自身の出来ることは現時点で限られていますが、国内に対しても世界に対しても、責任ある政治を実現できるよう、頑張りたいと思います。
自国が侵略された際に自分たちは戦わず、他国が守ってくれると思ってしまっている国民が多いのは日本だけでは?
それは国民性?
第二次世界大戦のせい?
教育?
国民が参加する議論に発展しないことが1番危機感を覚えます。
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