人質と拉致と平和のコスト(1)では、拉致においても今回の人質事件においても、国家が果たすべき義務があると述べさせていただきました。その上で私は、この機会に日本は、国家の果たすべき義務と国民のコストを含んだ「平和のコスト」とを再考すべきだと思っています。
日本の平和に対するスタンスは、大きく分けて4つあると思います。まず第一はかの有名な「非武装中立」で、憲法9条墨守のノーガード戦法というべきものです。そしてこの対として、英米仏露中の安全保障理事国並みの武力を保有して自主防衛を実現しようという「重武装独立」とでもいうべき極端な立場があります。そしてこの中間に、自衛隊を保有しながら海外への戦力展開を行わない従来の「軽武装抑制的平和主義」、そしてある程度軍備を増強して海外での戦力展開を目指す、安倍総理が提唱するところの「中武装積極的平和主義」があるものと、私は思います。
この枠組みの中で今までは、「非武装中立で戦争が起こらないということは幻想だ。それはそれこそ拉致のようなコストを国民に強いることになる。」という論調とともに、「積極的平和主義によってむしろ戦争は起こらなくなる。」という主張がなされてきました。しかし今回の人質事件で分かったのは、「積極的平和主義」もまた、「敵対する陣営からの反発-テロリズム」というコストを伴うということです。そしてその延長から考えて、「重武装独立」ともなれば、戦闘そのものによるコスト-戦死者も当然に発生すると、当然に考えるべきだということになります。これをまとめて模式的に示すと、下のグラフのようになると、私は思います(武装を増やせば増やすほどコストは増しますが、一方で全くのノーガードだと、それはそれでそれこそ拉致のようなコストが増すと思われること、武装を増やせば増やすほど国際的なプレゼンスは向上すると思われますが、全くのノーガードは、それはそれで「特殊例」としての価値が存在すると思われることで、下記のような折れ線になっています。)。
この分析において私は、「どの立場をとるかは国民の選択だが、どの選択をしようが、コストに適切に対応できなければコストがベネフィットを越えて、国民を不幸にしてしまう。だから国家は、政策の選択においてはコストを明示すべきだし、いったん政策が定まったら、それに対処する費用をきちんと手当しておくべきだ」と思っています。
そしてこの分析を現在の日本に当てはめると、
(1) 今まで日本は、他国から反発を買わない代わりに、国際的プレゼンスも希薄な「軽武装抑制的平和主義」の、「ゼロゼロ」とでもいえる立場に安住していた。
(2) 安倍政権は、その建前はともかくとして、本音では、おそらく、国際的プレゼンスの向上を求めて、「中武装積極的平和主義」更には「重武装独立」に進もうという意思を示している。
(3) にもかかわらず安倍政権は、「中武装積極的平和主義」のコストを十分に国民に説明してこなかったし、そもそも自身がそのコストを正確に想定しておらず、したがってこれに適切に対処する準備にも欠いていた。
ということではないかと、私は思います。
私自身、いつかはということなら、日本が、国連常任理事国の一翼を担い、主体的に世界の平和を担える日が来たら、極めてうれしいことに、異論はありません。しかし、現在の日本を見る限り、戦後70年間「ゼロゼロ」の立場に安住し、世界に張り巡らせた外交網も、そこから上がる情報を適切に判断するインテリジェンス機能も、ましてや人質を奪還する外交力を含めた武力も持ち合わせていないことは、現状認識として認めざるを得ないものと思います。そしてその日本が、重武装独立を夢見ていきなり今までの立ち位置から動き出しても、その結果は決して望むものにはならないように思えます。
今回の不幸な事件は不幸な事件として適切に対処しつつ、今後の日本の平和の実現方法については、今一度、自らの負担できるコストを考えて再考すべき時だと、私は思います。
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