ニュースの感想
自己責任論が、盛んです。雪山で人が遭難するたびに、外国で日本人が窮地に陥るたびに多くの人々によって自己責任論が語られ、救護の必要はないとの主張がなされます。
私は率直に言ってその意見に、正面から反対です。
自己責任論を声高に叫ぶ方に、私は次のように問いたいと思います。
「あなたは理由を問わなければ、目の前で困っている人を助けられないのですか?
ホームから人が落ちた、その時その人に落ちた理由を聞いて、酔っぱらって落ちたなら自己責任だから放置して、止むを得ず落ちたなら、助けるのですか?
雪山で遭難した人がいる、その時その人に遭難した理由を聞いて、装備不足なら自己責任だから放置して、十分な装備があったにもかかわらず天候不良で遭難したなら助けるのですか?
目の前で病に苦しむ人がいる、その時その人に病気になった理由を聞いて、不摂生が原因なら自己責任だから放置して、止むを得ずかかった病気なら助けるのですか?
外国で命の危険にさらされている人がいる、その時その人に、危険にさらされた理由を聞いて、それが自分に理由があるなら自己責任だから放置して、やむを得ないことなら救うのですか?」と。
私はそうではないと思います。目の前で困っている人を助けるのは「その人が困っているから」で、それ以外の理由はいりません。ホームに落ちた人は、酔っ払いだろうが赤ん坊だろうが、助けるべきです。雪山で遭難した人は、無謀な素人だろうが、熟練の登山家だろうが救うべきです。目の前で苦しむ病人は、不摂生によるメタボリックシンドロームだろうが、生まれつきの心臓病だろうが、治療しなければなりません。それと同じように、外国で命の危険にさらされている人がいたら、誰だろうがその原因がどこにあろうが、その人を救うために全力を傾けるのが、国家の義務というものです。
もし仮に救われる人に何らかの責任があるのなら、安全が確保された後に、事実関係を明確にしたうえで責任を追及すればよいだけのことで、命が危険にさらされている状況で責任を追及する意味はありません。
勿論、すべての場合にすべての人を助けることができないことを否定するつもりはありません。自らの身に危険が及ぶなら、ホームに落ちた人を助けられないのはむしろ当然です。捜索隊に二次被害の恐れがあるなら、救護打ち切りは仕方ないでしょう。致死性の高い感染症のように、その患者の治療をすることが医療者や他の患者の命を危険にさらすなら、積極的治療を中止せざるを得ない場合もあります。そして今回の人質事件のように、その人の命を救うことが、次により多くの人の命を危険にさらすことにつながりかねない場合には、その救出を断念せざるを得ないこともあるでしょう。
しかしそれは、「その人の命と他の人の命」の比較の上でなされるべき決断であって、「その人の命とその人の責任」との比較でなされるべき決断では、断じてありません。人の命と同じ重みをもつのは他の人の命だけで、他の何か、ましてや誰がどう判断するか定かではない「責任」などというあいまいなものではないからです。
カエサルの有名な言葉を借りた上に、我ながらきざで恐縮ですが、私は以下のように思っています。
「私は、今まで、多くの過ちを犯し、多くの人に迷惑をかけてきた。でも多くの人がそれを許し、多くの人が助けてくれたから、ここまで生きてくることができた。だから私は、他の人に対しても、そうあって当然だと思うし、そうありたいと思う。」と。
そして声高に自己責任を叫ぶ方々に、僭越を承知の上で、次のように問いかけたいと思います。
「あなたは本当に、自分は今まで誰にも迷惑をかけず、自らの失敗の責任を、自らとってきたといえますか?誰かに助けてもらったことはありませんか?その人があなたにしてくれたことを、目の前で苦しむ人にしてあげたいとは思いませんか?」と。
米山さんが言う「助ける」とは具体的にはどういうことでしょうか?
私は政府が助けようとしている事はわかりますが、身代金は払わない。
この姿勢も「助ける」という解釈でよろしいのでしょうか?
外交官はこんな時のために高い給料をもらっているのだと思います。
この程度の税金の支出は仕方ないと思います。
しかし、身代金の支払いは税金からすべきではない。
するのであれば日本人が誘拐されたら全員税金で身代金を支払わねば不公平だ。
また、金さえあれば助かった日本人は沢山居ます。
今の日本は全国民を救うだけの金は無い。
法律で税金で救う命の基準を決める事も必要かと思います。
私個人の意見としては身代金の募金活動を行えば良いと思います。
国民の真意が数字でわかるかと。
募金活動を行ってくれる仲間が居ないのであれば誰も救いたいと思ってないのでしょう。
特命係長さん、コメントありがとうございます。
そうですね、現時点での助け方も「助ける」であると思います。
身代金の支払いについては、私も反対です。記事でも書いていますが、「他人の命との比較」で命を救えないことはあります。そしてご指摘の通り、お金さえかければ救える命は他にたくさんあります。そこをまげて支払われるべきではないというのはおっしゃる通りだと思います。
ただ、すべての可能性が排除されるべきかというと、そうではないと思います。数人しかいない集落維持のためのインフラ整備に、数億が費やされることはまれではありません。最終的には、「多くの人のために役立ちうる」という可能性の有無を政治的に判断することになるのだと思います。某番組で識者が可能性を指摘していた三角取引や、イスラム国とパイプを持つ人物とのパイプの構築等、「多くの人に役立ちうる外交インフラ」を作る形での解決が模索されるべきなのではないかと思います。
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