ニュースの感想
衆議院の憲法審査会で、自民党推薦の参考人を含め、招致された参考人3人全員が現在国会で審議されている政府提出の安全保障法制を違憲とし、これに対して、高村自民党副総裁が「憲法学者はどうしても9条2項の字面に拘泥する。」と発言し、菅官房長官が「まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる。」と反論していることが、話題となっています。
まずもって「字面に拘泥する。」という高村副総裁の主張は、憲法どころか法律それ自体を否定するもので、極めて残念です。「法」とは「言葉で書かれたルール」です。自民党のお歴々が主張するまでもなく、あらゆるルールは、現実のすべての場面を決め切れるわけではありませんから、必ず「解釈」の幅が残りますし、その解釈はなるべく現実的であるべきだと思います。
しかし、その「解釈論」の大前提には、「ルールのエッセンス、ルールの理念は、言葉に化体される。」という哲学、「『言葉に表彰される抽象的理念やルール』が、『個別の事情』に優先する。」という、「はじめに言葉ありき」とでもいえる信念が存在します。この「言葉への信頼」「言葉の重み」というものがなければ、そもそも法などというものは作らず、毎回個別の事情毎に解決策を講じればよいということになってしまいますが、それは立憲主義・法治主義そのものの否定であり、実質的な人治主義の国になってしまいます。
従って、参考人として招致された先生方が「言葉に拘泥」して解釈論を展開したのは当然であり、それを否定する自民党高村副総裁の主張は、言葉が強くて恐縮ですが、率直に言って立憲主義・法治主義の原則に反する不見識なものであり、撤回に相当するものといわせていただきたいと思います。
その上で、「言葉に拘泥」して、つまりは言葉の重みをかみしめて解釈論を展開した場合、参考人の先生方の言う通り「違憲」と考えるのが通常なのか、それとも菅官房長官が主張する通り、「(違憲という人もいるかもしれないが)まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる。」のかが問題となります。
ここは評価の問題なので意見が分かれることを前提として、私は、個人の意見として、参考人の先生方の主張に賛成です。
今更ながら憲法9条を記載させていただくと、
憲法9条
(1項)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2項)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
とあります。
1項の「国権の発動たる戦争」「武力による威嚇又は武力の行使」に何が含まれるか(自衛が含まれるか、集団的自衛が含まれるか等)はさておいたとしても、ともかく日本国が、この2つを、「国際紛争を解決する手段としては」永久に放棄していることは文言上間違いありません。つまり日本は、「戦争若しくは武力の行使の何らかの一部」を間違いなく放棄しているのであり、そこを否定するのは不可能であるということになります。
更に2項では、「前項の目的を達するため」という限定はありますが、「国の交戦権」を認めていません。少なくとも第1項で放棄した「戦争若しくは武力の行使の何らかの一部」について、交戦権がないことを否定するのも、やはり不可能であるということになります。
にもかかわらず、「切れ目のない安全保障」を標榜し、実際上武力行使が必要となるほとんどすべての場面で武力行使を可能としておきながら、「戦闘が行われている地域でないから」、「後方支援だから」武力行使でないとする政府提出の安全保障法制は欺瞞が過ぎるという違憲論は、私はまっとうな解釈であり、菅官房長官の言とは裏腹に、おそらくは多くの学者は同様に考えるだろうと思います。
では、現在の安全保障法制は違憲として全く否定されるべきかというと、話がひっくり返って恐縮ですが、わたしは、それもそうではないと思います。「戦争若しくは武力の行使の何らかの一部」が放棄され、この部分について交戦権がないとしても、「戦争若しくは武力の行使の何らかの一部」が何なのかについては、解釈の余地があるからです。
私自身の勝手な解釈で恐縮ですが、参考人の先生方が「違憲」と述べていたのは、現在の安全保障法制のすべてがいけないということではなく、「安倍内閣の掲げる『切れ目のない安全保障』、すなわち『戦争若しくは武力の行使』をまったく放棄していない『普通の国』と同じ安全保障を、『戦争若しくは武力の行使』を放棄し、『専守防衛』を掲げる国が行うのは、憲法という言葉の重みを踏みにじるものであり、許されない。」といっているのだと思います。
繰り返しですが、「憲法」という国の看板に書かれた言葉は、重いものです。それは国家から国民に対してなされた約束であると同時に、国際社会に対して示した日本という国の在り方でもあります。私たちは、この憲法を国の内外に掲げ、「専守防衛」「平和国家」の旗印の下で、国家を建設し、国際社会の中で自らの地位を築いてきました。良いことばかりではなかったでしょうが、「専守防衛」「平和国家」が、日本の国際社会への復帰を早め、日本のイメージを向上させ、軍事的負担を減らして、日本に多大なメリットをもたらしてきたこともまた、否定できないでしょう。
そのメリットだけを享受し、相変わらずかつてと変わらぬ看板を掲げながら、しかしいざわが身が危うくなったら、「専守防衛」「平和国家」を掲げない他の国と全く同じ安全保障を得たいというのではいいとこどりが過ぎるでしょうし、そのような欺瞞に満ちた看板を掲げて国家を運営しつづけることで、日本が内外において誇りある国家になることなど到底不可能であろうと私は思います。
以上を前提に、では、どうすべきかということになりますが、まずもって私は、勝手な私見ではありますが、今回の安全保障法制は、実のところ、以下の修正を施せば合憲になるのではないかと思います。
(1)平時、グレーゾーン事態については修正不要
(2)重要影響事態においては、「武力行使」に即応できる準備はするが、専守防衛である以上、「国権の発動たる戦争」若しくは「武力による威嚇又は武力の行使」に相当する行為は、後方支援を含めて一切行わない。従ってこの時点での交戦権もない。
(3)存立危機事態においては、他国が、日本への武力攻撃と同視できる武力攻撃を受けた際に、集団的自衛権による武力行使を行う(結局のところ個別的自衛権と同視できる範囲で、集団的自衛権を行使する。)。
(産経新聞より)
こうすることで、(2)の重要影響事態において切れ目が発生しますが、実際は何かが起こっているわけではない以上、「専守防衛」「平和国家」を掲げる国家としてそのリスクは甘受すべきものと思います。(3)はそれこそガラス細工的言葉遊びで恐縮ですが、従来の「集団的自衛権は保有するが行使しない。」という解釈と整合性をもって集団的自衛権の行使を可能とするには、「個別的自衛権と同視できる範囲のみで集団的自衛権を行使する。」とするのがぎりぎりであろうし、また繰り返し、「専守防衛」「平和国家」を掲げる国家としては、その制限は甘受すべきと思います。
そしてその上で、安倍内閣は、
A.従来通り「専守防衛」「平和国家」を掲げ、その代償として安全保障に一定の穴が開くリスクを敢えて受け止めるか、
B.安全保障を万全にするために、「専守防衛」「平和国家」の旗印を降ろし、普通の国家として、その軍事的経済的政治的コストを払うのか、
の選択を国民に問うべきであろうと私は思います。
A.B.いずれの道をとるかは国民の選択であるべきですが、憲法という国の看板に虚偽と欺瞞を掲げる「言葉に何の重みもない国」に日本がなることは、誇り高き日本人がとるべき道ではないと、私は思います。
※我ながら大変長文で、かつ持って回った論理になっておりますが、職業柄ということでご容赦いただけると幸いです。
まずは憲法改正の発議でしょうね。解釈云々では限界にきてます。
グレーゾーンが云々のところですが、こんなの明確にしたら、仮想敵国はここまでやっても反撃してこないという保証を与えてしまうことになるので、軍事学的にはグレーゾーンのままにしておいた方がいいと思います。政治的にはそうもいかないのでしょうが。
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