ニュースの感想
防衛事務次官の後任人事を巡って、ここ数日官邸と防衛庁を巻き込んだすったもんだがなされた後、「両者痛み分け」と言う結論が出されました。この件について内閣や大臣の統率力を含めて様々な議論がなされています。
それらは、勿論それぞれに傾聴に値し、大臣、総理、そして官僚の側もそれぞれに反省すべきところがあるのだと思います。しかし、実のところ私は、この問題の根本的原因は、「そもそも日本の官僚制度は、幹部官僚の『人事権』がどこにあるのか、制度上はっきりしないという根本的欠陥を抱えている」と言う点にあると考えています。
国家公務員法55条は、「各大臣に各省庁の官僚の『任命権』がある」と明記します。ところが「慣例的に」大臣が次官を含む「局長」級以上のポストに官僚を任命するには、その人事案件は、事前に「正副官房長官」からなる「閣僚会議検討委員会」で了承され、閣議で了解を得る必要があります。そして更に興味深いことに、「閣僚会議検討委員会」に人事案を挙げるのは、「事務次官」であると言うことになっているようです(これを定めた文書があるわけではないので、不明確な書き方になりますが)。そして極めて特徴的なことに、その人事案に同意していない官僚を如何にして「解任」するかについての法的取り決めは、おそらくどこにもありません。
これによって、例えば事務次官自身が自身の解任に納得していない時、彼はその人事案を「閣僚会議検討委員会に上げない」というサボタージュの方法を持つことになります。また逆に大臣が、次官の挙げてきた人事案を全て否定してしまうと言う対抗措置を取ることも可能です。そして、なにより、公務員の身分保障が幹部職員にも及ぶ以上、「解任」に当人が納得せずに抵抗し続ける場合、それを強行することは法律上極めて困難です。
結局のところ日本の官僚人事は、大臣と官僚が御互いに相手に対する実質的「拒否権」を有することで互いに牽制しつつ、「法律」と「慣習」が混然一体となった中で、いつの間にか形成された「暗黙の了解」によって利害関係者全員の同意を取ると言う極めて複雑なプロセスを経て決定されているわけです。
これを「日本的伝統」と言えばそれまでですが、今回の一件は、この制度において一度事態がこじれると、その収拾が極めて困難になる事を、満天の下に晒したと言えます。この制度的欠陥を今のままの形で維持することは、時代の変化の中で官僚組織にも新たな改革が求められ、それによる意見の対立が先鋭化する現在、改革の足かせになってしまう可能性が極めて高いと、私は思います。「日本的伝統」で行うことが可能な人事は可能な限り日本的伝統に則って行うとして、それが難しくなったときは、最終的な決定権者-恐らくは大臣か首相-が、明確に人事権を行使できる法的な仕組みを作り上げることが、今後の日本の行政運営には不可欠だと、私は考えます。
小池防衛大臣と前事務次官との抗争で疑問に思ったのですが、誰も『文民統制・シビリアンコントロール」問題として触れていません。
防衛省は、言うまでもなく軍事・国防を扱う官庁ですが、そのトップの事務次官が、たとえ『背広組』といえども、政治家の防衛大臣に逆らい、自衛隊最高司令官たる首相に物言いするなんて、これは民主主義国家の根幹に関わる文民統制に対する挑戦ではないでしょうか?
防衛省の事務次官は、自衛隊の現役の「軍人・将校」と同格と思いますが、いかがでしょうか?
しかし、なぜか民主党も、憲法九条を守れ、と声高に叫ぶ共産党や社民党・進歩的知識人・マスコミ・ジャーナリスト・憲法学者・法曹も、全く今回の件の文民統制侵犯の件に一切触れません。
どういうことでしょうか?
米山さんは、法曹でもありますが、ご見解はいかがでしょうか?
知りませんでした。
大臣は ながくて3年でしょう、官僚は 在籍する限り官僚です。
大臣より 組織を大切にしますね。
「。」さん、みっくんやさしさん、みっくんやさしさん、コメント有難う御座います。
今回の件は、一応は背広組みが大臣に人事で物を申しているだけですので、「文民統制」の言葉の定義にはあたらないと思います。
しかし、「。」さんが危惧されている通り、こういった指揮命令系統の不明確さを放置することは、有事の際に軍部の独走を招き、民主主義を危うくする一因とはなりうると思います。
民主主義と言うものは、勿論「誰もが物を言う権利を有する」と言うことが大原則になっています。しかしこの仕組みを維持するためには、「最終的にはどういうプロセスで、誰が決定するのか」と言う点を明確化することもまた欠かせません。
政治-民主主義による行政の監督権の明確化で、自衛隊を含めた行政各部の独走を許さない仕組みを創ることが、日本の民主主義を保ち続ける為に必須であると、私は思います。
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