麻生副総裁が、社会保障制度改革国民会議において、「さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と発言されたと、報道されています。
発言全体を見ると、ご自身のご希望を述べたものですし、言葉の適不適はともかくとして、「安らかに死にたい」と思っておられる高齢者の方も多いことを医療の現場で実感している一人として、決して間違ったものではないと思います。
私はむしろ麻生副総理に、「ご発言の趣旨には賛成です。ではなぜ人は『さっさと死ね』ないのか、どうすればそれを望む誰もが、『さっさと死ねる』ようになるのか、お考えをお聞かせください」と伺いたいと思います。
死は、すべからく苦しいものです。「チューブ人間」となった末期がんの患者さんからすべてのチューブを抜き去ったら、訪れるのは「安らかな死」ではなく、断末魔の、塗炭の苦しみです。本人は勿論、見守る家族もスタッフも、それに耐えることは容易ではありません。たとえ延命治療を行わないとしても、死の苦痛と恐怖をとってくれる十分な設備とスタッフと医療がなければ、人は、とうてい「安らか」には死ねません。「さっさと死ぬ」ことは、そう簡単ではないのです。
また「安らかな死」以前に、「安らかな老い」を迎えることが、簡単ではありません。現在の特養定員数は40万人、85歳以上の人口210万人の1/5にすぎません。特養に入れなかった高齢者が医療・介護が揃った民間の有料施設に入るには、月20万円程度はかかります。これだけのお金を払える人は、そう多くはありません。多くの人にとって、「安らかな老い」は、手に届かない遠くにあります。
「安らかに老い」「安らかに死ぬ」場を得られない高齢者が最後に頼るところはどこか、それは病院です。医師法で診療義務が定められている日本では、原則として、誰であれ、病気を有していれば、治療を受けられます。病院にさえ行けば、老いと死の苦しみから、一時解放されます。
現在の終末期医療は、それ自体が望まれているというよりも、他に選択肢がないから、十分な介護と医療を受けて、「安らかに老い」「安らかに死ぬ」場が病院の他にないから、選ばれているのだという側面を否定できません。
誰もが「さっさと死ねる」ために必要なことは、高齢者医療を削ることでもなんでもなく、誰もが安心して老後を送れる介護施設と、誰もが安心して死を迎えられる終末期施設を十分に供給することだと、私は思います。
しつこいですが、自民党は年間20兆円、10年間で200兆円、1人当たり200万円ものお金をかけて国土を強靭化し、100年に1度、1000年に1度の地震・災害に備えようとしています。それが悪いとは言いません。しかし、今現在生きている日本人の中で、今後100年間の間に、本当に「100年に1度の大地震・大災害」に遭遇する人は、1%もいないでしょう。
その一方で、今現在生きている日本人のほぼ100%が、今後100年間の間に、確実に老い、そして死にます。率直に言って、現在の日本の福祉制度においては、必ず訪れる老いと死を、自らの決断だけで安らかに迎えることが出来るのは、麻生副大臣とは言わないまでも、豊かな一部に限られます。
いつ、どこに来るか分からない地震の為に国民1人当たり200万円をつぎ込みながら、なぜ、すべての人に、必ず訪れる老いと死を安らかに迎えるためにお金を使わないのか、私は改めて、麻生副大臣をはじめとする自民党の皆さんに、問いたいと思います。
「誰もが『さっさと死ねる』ために、誰もが安らかな老いと死を迎えるために、今私たちが取り組まなければならないのは、『国土の強靭化』ですか?本当にやらなければならないのは、危機に瀕している社会保障制度の立て直しではないのですか?」と。
米山さん こんにちは
細かい話ですが、「麻生副総裁」ではなくて麻生「副総理」ではないでしょうか?
自民党の副総裁は高村さんのはず?
それと前稿の大阪私立桜宮高校も大阪「市立」です。単なる変換ミスと思いますが、影響力の高い方の発信される情報なので、より高い精度を持っていただきたいと思います。
麻生さんの言ったことってすごく重要で、きっちり死と言うことを考えるには良い機会だと思うのですが、
何でみんなで非難しちゃったりするんですかね
麻生さんにはもっと粘って欲しかった・・・
公共事業は、その投資が、何かを生み出す場合に限り、乗数効果の高いものに限り、許されると思います。
これまでにも貴ブログで議論されている、医療行為や福祉サービスは、次世代に何も残しません。
終末医療のあり方、議論は必要ですが、公共事業としては、インフラ整備、さらには若年層支援のほうが納得いきます。
要するに、自分の老後は自分で考えるべきだということです。
とおりすがりさん、コメントありがとうございます。
>公共事業は、その投資が、何かを生み出す場合に限り、乗数効果の高いものに限り、許されると思います。
賛成いたします。「公共事業は無駄・悪」というレッテル貼りが無意味なのは安倍総理の言う通りですが、「公共事業は有益・善」というレッテル貼りもまた無意味です。問題は中身でしょう。
> これまでにも貴ブログで議論されている、医療行為や福祉サービスは、次世代に何も残しません。
>
> 終末医療のあり方、議論は必要ですが、公共事業としては、インフラ整備、さらには若年層支援のほうが納得いきます。
>
> 要するに、自分の老後は自分で考えるべきだということです。
そうでしょうか?高齢者の医療・介護で次世代の労働力、時間、エネルギーがどれほど奪われているか、老後の不安の為に、日本人の金融資産活用の機会やチャレンジ精神がどれほど失われているか、お考え頂ければと思います。「自己責任」というのは簡単ですが、目の前で高齢者が、なかでも血を分けた家族が苦しんでいたら、それを放っておくことは、個人としても社会としてもできるものではありません。目の前の問題を放置したところで、結局のところドタバタの対応が必要になって、家族にとっても社会にとってもコストは高くなります。
公共事業が対象を選んで、方法をよく練って行えば全世代に社会的利益をもたらすのとまったく同じく、社会福祉も、対象を選んで、方法をよく練って行えば全世代に社会的利益をもたらすものと、私は思います。
私が言いたいのは、公共事業の絶対的否定でも、社会福祉の絶対的肯定でも、そしてもちろん公共事業の絶対的肯定でも、社会福祉の絶対的否定でもありません。いずれも正当に評価し、なすべきものはなし、なさざるべきものは勇気をもってなさざるべきだと、言いたいのです。そして、その視点から、「年間20兆円の公共事業(以外に穏当な予算だったので本当のところいくらになるかは不透明ですが)は、明らかに過大であり、明らかに不要なものが入っている。現在の社会福祉に不要なものも多々あるのは認めるが、同時に、不足のものもたくさんある。」と申し上げたいのです。
安倍総理自身が繰り返した「危機」を乗り越えるために今私たちがなすべきは、「これさえすれば大丈夫。」「今までどおりで大丈夫。」的行動を続けることではなく、日本の実力を直視し、一から何をなすべきで何をなさざるべきかを考え、必要と判断したら果断に実行し、不要と判断したら痛みを伴ってもそれを改めることだと、私は思います。
「今まで通り」を大規模にやれば解決するようなら、そもそもそれは「危機」などではないからです。
最近のコメント一覧