ブログ記事 「競争無き大学入試で日本の未来を創れるか?」に対して、「学業以外の資質」さんから、
「国立大学を始め公立学校において、学力を基準に優秀な人材を育成することに異論はありませんが、国公立即ち国民の税金によって育てられる人材は須く国家のために奉公する義務があると考えるのは当然です。ですが現状どうでしょうか。公に尽くすことよりも私が優先している国公立大学出身者が多すぎませんか。医師は収入に汲々として僻地医療に身を投じず、公務員は保身に邁進して旧態を変えられず、大企業の経営者にいたっては国益よりもグローバル企業の利益を優先。国公立大学に入るにあたり、個より公を大事に出来るか否かを指針にすることは国益にかないます。最後に大事なことは、「国家はそういった人材を求めている」ということを日本国のリーダーが発信することの意義です。その影響があまねく初等教育に及ぶと考えれば、私は暗澹たる気持ちにはなりません。」
と言うコメントをいただきました。返信が長くなりましたので、稿を分けて、別記事としてアップさせていただきます。
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「学業以外の資質」さん、コメント、ありがとうございます。
「国公立即ち国民の税金によって育てられる人材は須く国家のために奉公する義務があると考えるのは当然」でしょうか???
恐縮ですが、私は全くそうは思いません。「ノブレスオブリージュ」(恵まれたものの義務)と言う意味で、恵まれた立場にある人は、社会への還元を考えるべきだとは思いますが、それはあくまで「自ら自発的にそう思うのが望ましい。」という道徳の問題でしょう。
「国公立大学に入るにあたり、個より公を大事に出来るか否かを指針にする。」などと言うのは、馬鹿げた国家主義以外の、何物でもありません。
また、現実的問題として、それが大学選抜の指針なら100人が100人とも、面接の場で「個より公を大事にします!」と大声で答えるでしょう。これによって受験生を選択したら、「一番大声を出したものの勝」「毎日国旗を掲揚したものの勝」的な無意味なパフォーマンス競争が起こるだけです。
子供のない私が言うのもなんですが、教育は、次の世代に、自ら幸福に生きるための力を与える、「愛」なのではないでしょうか。そして、極めてキザですが、「愛」は代償を求めるようなものでは、そもそもないのではないかと、私は思います。
「それならなぜ能力で選抜するのか。」と問われそうですが、「愛」は、与える相手を知り、与える相手にふさわしいものを与えるものです。能力による選抜は、厳しいようで、その子供に最もふさわしいものを客観的に選ぶ、現実的手段だと、私は思います。
自らにふさわしい能力を、自らの努力と、社会の助力で得た子供たちが、どのような人生を歩み、どのような社会を作るかは、その子供たちが決めることで、私たちが決めることではありません。
「国家に忠誠を誓う人間だけを選抜して、国家が教育を与える。」などと言う恐ろしい未来を、私は心から否定します。
家で親に育てられた子は忠孝を尽くすことが日本人の美学です。
貴方も馬鹿にされながらも家業を継いだでしょう。
それは親や家族に対する感謝の念からです。
企業で育った社員は企業に尽くすという仕来りが日本企業の佳き伝統でした。
社員が自由転職を権利として行使すれば、経営者は社員を変数として切り捨て、結果が社会不安定化です。
そういった社会の構造において、なぜ日本国によって育てられた人間が日本国に尽くさなくてよいのですか?
貴方の出た東京大学は官僚育成校ですが、日本国の官僚が国に尽くさないなんて、実に悍ましいことであり、その原因がまさにこのテーマです。
日本国政府の役割は国益を最大化することであり、その政府を動かしたい人間が「馬鹿げた国家主義」と言う。
この文脈において何処が馬鹿げているのか説明して下さい。
個より公を大事にする判断基準は口頭試問ではなく、むしろ実績である内申書での判断に基づくという発想はありませんか。
高校時代までにどれだけ公の意識を持って活動したかは大変重要な観点です。
貴方はそういった経験がなく、ひたすら個のために勉強してきたから、頑なに反発されるのではないですか?
「愛」に関して、妻子の無い「愛」云々はよく分かりませんが。
教育とはどのような人間を目指すのか、どのような社会を目指すのか、まずは大人がしっかりとしたビジョンを示して型にはめるべきであり、それを打ち破る力を持つ子供達が新しい社会を築いていくものです。
守破離といいますが、何も規制がない中から、何もお手本がない中から、安定した人生や安定した社会は作れませんし、それを指導者が言っては責任放棄でしょう。
>「国家に忠誠を誓う人間だけを選抜して、国家が教育を与える。」などと言う恐ろしい未来を、私は心から否定します。
真に恐ろしいのは「国家に忠誠を誓う人間だけが教育を与えられる。」未来であって、貴方の主張は私学を無視していますね。
国家を強くする政府部門と、多様性を重視する民間部門が両立する社会を目指すべきであり、公教育は国家のために行うものです。
そうでないならば、多くの国民は教育予算の税金は払いませんよ。
自然な感情として、国民の税金で学業を修めさせてもらって、貴方は日本国のために滅私奉公したいと思わないのですか?
愚問でしたね。
学業以外の資質さん、コメントありがとうございます。
あまり果てしない議論もなんですが、問いかけが多くありますので、それぞれに簡潔にお答えします。あまり水掛け論になるようでしたら、コメントは反映しませんのでお許しください。
>「親に育てられた子は忠孝を尽くすことが日本人の美学です。」
そう思われるのは自由ですし、別段大筋として反対はしませんが、自らの為に頑張ろうと思うのもまた自由ですし、別段非難されることではありません。また「美学」という言葉が何を指すのか不明です。
>「日本国政府の役割は国益を最大化することであり」
これもそう思われるのは自由ですし、別段大筋として反対はしませんが、国家の義務は国民一人一人の幸福を最大化することと考えるもまた自由であり、別段非難されることではありません。そのような別の考え方を頭ごなしに排除されることを、「馬鹿げた国家主義」と私は考えます。
>内申書で公の意識をもって活動したことを評価する
これも構いませんが、これが非常に大きなウェートを占めるなら、やはり意味のないパフォーマンス的ボランティア合戦が横行するだけでしょう。現実的ではありません。
>貴方はそういった経験がなく、ひたすら個のために勉強してきたから
私は勿論自分の為に勉強してきました。努力と言うのは本来的にそういうものです。イチローだって、山中教授だって、自分の為に努力したはずです。自分の為でなければ、何年間も本気で頑張り続けることは出来ません。「公の為に努力する」などと言えるのは、私には最低限3年を超える努力を継続したことのない方の戯言に聞こえます。
ただ努力をした成果を得た先には、自らが得たものは自らだけでなく、周囲や、社会の協力あってこそであったことが、自然とわかります。公に還元しようという気持ちは、その時芽生えるものでしょう。
>大人がしっかりとしたビジョンを示して型にはめる
私はそうは思いません。
>「公教育は国家のために行うもの。」
私はそうは思いません。
>「自然な感情として、国民の税金で学業を修めさせてもらって、貴方は日本国のために滅私奉公したいと思わないのですか?」
そうですね、愚問です。おっしゃられる「滅私奉公」が何を指すのかわかりません。
自らの私的な生活を犠牲にして公の仕事をしようと努力すると言う趣旨なら、平均以上にやっているように思います。
たとえば自らの収入の1/10で暮らし、後はどこかの公的機関に寄付しろと言う趣旨なら、そのようなことをする意思はありませんし、そのようなことをする人を見たこともありません。
この問題って議論の価値があるのでしょうか?個の為であっても稼いで税金払えば公の為に十分なるんじゃないんですか?
米山さんは医者がいないところ問題になっている産科小児科で率先して働きたいとか、弁護士不足のところで開業したいとか、気持ちはあります?
自分じゃない誰かがやればいいと思います?
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