活動報告
ブログ記事「代案「ヨネノミクス」 ~ルールによる民間分配政策で、「自分の誇り」を取り戻せ!~(http://www.elec
に対する、「我が輩は犬である。名前はまだ無い」さんのコメント
「米山さんのモデルは社会主義に近いですね。日本に向いているのでしょうけど。何か理屈を作るときは理想モデルを構築しないとはなしがややこしくなるのはわかりますがちと性善説に傾きすぎでは。誰もが誇りある人間であれば、今こんな事になっていないわけで
日本で再び紀伊国屋文左衛門みたいな人が経済を回す時代が来ればきっと愉快だと思うのですが・・・・。そういう金持ちに、国内で金を使わせる方策は無いんでしょうかね。」
へのお返事が長くなりましたので、稿を分けてアップさせて頂きます。
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我が輩は犬である。名前はまだ無いさん、コメントありがとうございます。
私としては全然社会主義的ではなく、むしろ自由主義的というか資本主義的だと思っています。また性善説ということでもありません。
「全ての企業に残業代をきちんと払わせる。」のが皆さん困難と思っておられるかと思いますが、私は意外に現実的に可能だと思っています。
現在残業代の未払いは、悪質な場合は、「付加金」が課されて倍になります。ところがあまりこの制度が知られていないのは、裁判所がそれほど「付加金」を認定しないからです。
これを、「意図的な残業代未払いは、無条件に付加金10倍」としてしまえば、50万円の残業代未払いが発覚すると500万円の支払いを求められることになるわけで、まともな経営者なら、普通のリスク計算上残業代未払いは絶対やらなくなります(労働者側も10倍もらえるなら、泣き寝入りせず訴えてくるでしょう)。そんなリスク計算もできない経営者は、放っておいても早々に市場からいなくなります。従って「全ての企業に残業代をきちんと払わせる。」は、労働基準法の条文をたった一つ変えるだけで、いとも簡単に実現できると思います。
また一方で私は、「金銭解雇」に賛成です。現在の日本の労働法では、正社員を解雇するのは極めて困難ですが、そうはいってもミスマッチや業績の変化で、解雇の必要は生じます。ところがそれが出来ないものだから、現在は、まさに上の「正社員の残業代未払い」が事実上の雇用の調整弁となっており、「正社員の数は限定し、但し繁忙期にはものすごいサービス残業をさせる、その外は非正規雇用でまかなう。どうしても正社員を解雇しなければならないときは、『嫌がらせ』に近い退職勧奨を行い、『自主的に』辞表を書かせる。裁判になったら4~6ヶ月分の給与を支払うが、辞表も取っているし、裁判になることはめったにないから大丈夫。」、と言うある種極めてゆがんだ労働慣行がむしろ一般的になっているわけです。
それよりは、まず上記の通りの労働基準法改正でサービス残業を一律に禁ずるとともに、例えば6ヶ月分の給与(労働裁判における相場です)を支払うことを条件に正社員の解雇を可能にすれば、経営者はその状況その状況に応じて、適正に社員を雇用することが可能になります。これによって正社員と非正規雇用の差は減りますから(正社員にサービス残業をさせられなくなり、正社員もコストを払えば解雇が可能になるので)、現在の身分制に近い正社員と非正規雇用の格差も解消に向かうでしょう。
確かにこうすると、従業員は解雇されるリスクを負いますが、その分決められた時間でしっかり成果を残すことになります。勿論そういった努力と無関係に業績の悪化で解雇されることもあるでしょうが、解雇されても6ヶ月分の給与を貰えれば、余裕を持って次の職場を探すことができるわけですから、次の職場を選ぶときは「この業界に将来性はあるか?この人はまっとうで有能な経営者か?」を考えることになります。これによって、従業員だけでなく経営者にも淘汰を迫り(解雇のコストを適正に評価しビジネスを計画・実行できる経営者が生き残り、ブラックに従業員を圧迫する経営者が淘汰されることになります)、産業の新陳代謝を促し、日本経済の真の活性化につながると思います。
そしてこれは、「従業員と経営者が、公正な条件の下で、適正に競争することで、経済全体の底上げを図る。」という、極めて資本主義的な制度だと私は思います。
「性善説」と言われるかもしれませんが、私は「誰もが誇りある人間である」ことは決して難しいことではないと思います。但し、それは、何というか「人間放っておけば善人としてふるまう。」と言うユートピア的な意味ではありません。「人間、誰だって悪い人よりはいい人、できない人よりは誇りある人になりたい。そうならないのは、本人の資質もあるにはあるが、むしろ悪い人やできない人でいる方が得であったり、そうならざるを得なかったりする『制度』の問題が大きい。」と思っているからです。
地味に見えるかもしれませんが、出てくるか来ないか分からない「紀伊国屋文左衛門」的ヒーローの出現を待望するよりも、「仕事のできる人」「社会に有用な人」になりたいと普通に願う普通の人が、その想いをきちんとかなえられ、きちんと報われる「制度」と「社会」を作ることが政治の仕事であると、私は思います。
>裁判所がそれほど「付加金」を認定しない
のは何故でしょうか?
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