靖国神社例大祭に、安倍内閣の女性3閣僚が参拝しました。
一方で政府は、来春からの介護保険報酬を6%削減する方針を打ち出しています。
両者は全く関係ないように見えますが、一つだけ共通点があります。それは、靖国に祀られている最も若い戦死者と、現在介護を受けている最高齢の世代-90歳~100歳の世代は、一致するということです。
靖国参拝を何より重んじる方々は、「国のために命を落とした英霊に感謝し手を合わせるのは当然だ!」と強調されます。それに異論がある人は、いないでしょう。
しかしでは、「命を落とさなかった人」「生き残り、焼け野原となった日本で汗水たらして働いて、戦後の復興を成し遂げた人」には、感謝しなくてよいのでしょうか?その方々の人生の最後の局面を、救わなくてよいのでしょうか。
保守を標榜する方々に、「靖国」へは国家として参拝することを強く主張する一方で、「介護」は家族で-特に戦前の大家族を復活して-行うべきだと主張される方が多くみられます(田母神氏がその典型でしょう)。
要するに、「死者」は国家で讃えるが、「生きている人」は自分で何とかしろということだろうと思いますが、私は敢えて、「それは全く逆です。」と申し上げたいと思います。
「死」は、個々人のものです。如何に戦時中とはいえ、死の瞬間、靖国に祀られようと思ったか、母の下に帰ろうと思ったか、愛しい恋人、愛する妻の下に戻ろうと思ったのかは、その人にしか知りえません。反論を承知で申し上げますが、戦死者はすべからく靖国に祀られたいと思っていたなどと決めつけることは、死者に対して極めて不遜なことで、厳に慎むべきことであると、私は思います。
一方で「生」は、もちろん個々人のものではありますが、社会の中、国家の中で、存在するものです。高齢で自らの生活を支えられなくなり、様々な事情で家族の支援も受けられなくなった方を助けられるのは、「国家」しかありません。満足な介護を受けられずに苦しむすべての高齢者を救えなくて、救おうとしなくて、何が国家の誇りかと、私は思います。
繰り返し、私は靖国参拝そのものが、悪いと言いたいのではありません。しかしそこには例え「期せずして」であっても、コストはかかります。対中国輸出は、恐らくは安倍総理の靖国参拝を契機に、10% 1兆円ほど落ち込みました。つまり安倍総理は、死者に手を合わせるのに、1兆円程度のコストを支払ってもよいと思っているということでしょう。
一方で介護保険給付費は総額で7兆円、その6%は、4200億円でしかありません。
「死者に手を合わせるのに1兆円払うことは厭わないが、今現に目の前で苦しんでいる高齢者を救うために4200億円払うのは惜しい」、それが本当に誇りある日本のあり方なのか、それが命がけで日本を守った人に報いるということなのか、我々は真剣に問い直すべきだと思います。
追記:介護の具体案については、後ほど「代案『ヨネケア』 ~国民一保険による医療・介護・年金で全ての人に安心の老後を~」をアップさせていただく予定です。
米山様
かなり久々の大ヒット!分かり易い。的を射てる。
魚沼スカイラインに陸軍ビルマ戦線の戦没慰霊碑があります。私は地元ではないので縁もゆかりもありませんが、そこを通ると必ず手を合わせます。その心と行動で充分な気がします。
民主主義では政教分離は重要なファクターです。私も英霊に感謝の意を表す事は大切だと思いますが、あくまでも私人としての行動であるべきと考えます。
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