間もなく,終戦の日を迎えます。国政の場では安全保障法案が最大の話題となっており,この法案の憲法適合性に疑義が唱えられていることから,「平和は何によって守られたか(守られるか)」が,大きな話題となっています。
その中で,ある人は「憲法9条があったからこそ日本の平和は守られたのだ。」と主張し,ある人は「平和は自衛隊と日米安保によって守られたのであって,憲法9条に守られたのではない。」と反論し,お互いが決してまじりあう余地のないかのごとくの議論が戦わされています。
現実には,この70年間,日本には憲法9条と自衛隊と日米安保があって平和が保たれたのですから,そのどれが平和にとって必要で,どれが必要でなかったのかを立証することはもちろんできません。しかし私は,「憲法9条だけで平和は守れた」という意見にも,「平和は自衛隊と日米安保のみによって守られ,憲法9条は不要だった。」という意見にも反対で,この3つのすべてがあったからこそ日本の平和は保たれたのであり,今後とも日本の平和を維持するためには,そのどのひとつがかけてもいけないのだと考えます。
まずもって,日本国憲法,なかんずく憲法9条を「押し付けられた」憲法であり,平和にはむしろ危険であったという人々は,日本の主権回復にこの憲法が果たした役割を完全に見落としています。「終戦」「進駐」という言葉で誤魔化していますが,日本は間違いなくアメリカに,完膚なきまでに「敗北」し,「武装解除」を受け入れて「無条件降伏」し,主権を失って「占領」されていたのです。どのような事情があったにせよそれは,日本自身が始めた戦争の結果なのですから,敗者として当然受け入れるべきものであったとしか言いようがありません。
これはアメリカから見れば,どのような経緯であれ,日本から宣戦布告されて始まった戦争の結果,想像をはるかに凌駕する多大な人的物的被害の後に,やっとのことで日本の武装解除-日本の「人畜無害化」に成功したということですから,その日本に主権を返還し行動の自由を与えるとなったら,アメリカの対日安全保障的観点からは,日本が二度と再び戦争を起こしえない状況を確定しようとするのは,勝者として当たり前だということになります。
そしてこの状況でアメリカ人が,対日安全保障として,「憲法9条」という「法律」と「制度」を選んだということ,しかも困難とはいえ改正可能な条項を付したということは,私は,「法の民」「制度の民」としてのアメリカ人の面目躍如であって,尊敬と感謝に値することだと思います。
この憲法9条がなくても-日本がそれこそ今の自民党案のような「自主憲法」を制定したいたとしても-アメリカが,日本に主権を返還し,サンフランシスコ平和条約を調印したなどということは,太平洋戦争における「加害の現実」以前に,「敗北の現実」を直視すれば,まずありえないことだと分かることであり,私はそのような主張をする人は,大変恐縮な言い方ではありますが,「ご都合主義的日本中心史観」に基づく「お花畑」的発想に浸っていると断じられても仕方ないと思います。
ではこの憲法9条は,アメリカの安全保障にとってのみ利益であり,日本には危険しかもたらさなかったでしょうか?私はそうは思いません。繰り返しで恐縮ですが,当時日本は,何せ「大加害」の結果,「大敗北」していたのです。勝者の権利の行使を虎視眈々と狙う国々から,警戒と猜疑の目で見つめられ,いつなんどきでも,勝者連合からつまはじきに会う立場にあったはずです。その日本が,世界に打って出るには,自らは決して二度と再び加害しないという「通行証」が必要であったのであり,憲法9条は,期せずしてであったかもしれませんが,その役割を果たしてきたのだと,私は思います。
勿論その後の国際情勢の変化とともに,憲法9条だけでは日本を守れない事態が生じ,1950年に自衛隊が設立され,1951年には日米安全保障条約が締結されました。しかし,これらの方策も,基本的には憲法9条-日本は二度と再び自らは加害しない-という制度的保障と通行証があったからこそ,成立したものであるという側面は,大きくあると思います。
仮に憲法9条がなく,日本に独自の交戦権が認められていた場合,如何に朝鮮戦争勃発後とはいえ,アメリカは自衛隊(当時は警察予備隊)の設立を,日本に許したでしょうか?仮に許したとして,その戦時作戦統制権を内閣総理大臣に与えたでしょうか(自衛隊は建前として戦争をしないので戦時作戦統制権という概念はありませんが,現在の自衛隊法上,戦争が発生した場合も当然に内閣総理大臣が指揮をとることになります。)?「ご都合主義的日本中心史観」に基づくお花畑的発想でもしない限り,私はそのいずれもNoであり,憲法9条がなければそもそも自衛隊は設立されないか,仮に設立されていても韓国のように,戦時作戦統制権は米軍に保留されていたと思います。
日米安全保障条約もまた然りで,仮に憲法9条がなく,日本に独自の交戦権が認められていた場合,アメリカにしてみたら,日本がどこかで再びとち狂って戦争を始めてしまったらアメリカがそれに付き合わなければならなくなるうえ,当時既に冷戦状態にあったソ連や中国との緊張をより一層高めてしまうのであり,そう簡単に締結できなかったように思います。日本が憲法9条によって交戦権を有しないからこそ(それはつまりアメリカが戦争を開始するかしないかを決められるということです),アメリカはある種安心して(日本独自のリスクを考えずに)日米安全保障条約を結ぶことができたのであり,かつ,日本にとってはアメリカを防衛する義務のないものになったのだと私は思います。
つまり戦後70年の日本の防衛体制は,まずもって「大加害」と「大敗北」と,それに対する各国の「疑念」と「警戒」からスタートし,そこを乗り越えるために憲法9条という通行証を得て主権を回復し,その通行証とともに少しづつ積み重ねた信用で,自衛隊という軍備を持ち,日米安全保障条約という抑止力を持つことで築きあげられたものであって,憲法9条だけで平和が守られてきたと考えるのが「軍事的力学」というものを無視したある種の「お花畑」的発想であることは否定しないのですが,一方で憲法9条は全く平和に必要でなかったという意見も,日本の「加害」や「敗北」の事実を無視し,憲法9条という「通行証」が日本の対米政治や国際政治に果たしてきた役割を無視するもので,実社会における「政治的力学」というものを無視した,別の方向での「お花畑」的発想であるように私には思えます。
その上で今後の日本の平和はどう守られるべきかが問題となりますが,私は,それを集団的自衛と呼ぶか個別的自衛の拡張と呼ぶかは別として,ある種の「集団的安全保障体制」の構築が必要となることそれ自体は,否定しようがないと思います。
「法の民」「制度の民」であると同時に,いやそれ以上に,「物量の民」であるアメリカ人は,安全保障における物量-経済力と人口の価値を,痛いほど知っています。どれほど中国に欠点があったとしても,あとわずか10年でアメリカのGDPを追い抜き,その後当分の間,経済規模,人口規模で世界一を独走する中国を抑えるには,「中国以外連合」を作って,過半数という「物量」を確保するしか方法はありません。アメリカが安全保障においても経済政策においても数の確保に向かうのは,理の必然であるといえます。
しかしだからこそ私は,日本の基本方針としての平和主義と専守防衛,その方針を示す「通行証」としての憲法9条の価値は,今後も生き続けると思います。上述の「中国以外連合」における日本の役割は,好むと好まざるとにかかわらず,軍事力で他を圧倒することではなく,アメリカの信任を得て,自らは決して誰をも加害することなく,それ故に誰からも警戒感を持たれることが無いという立ち位置で,実は相互に複雑な利害を有する東南アジア地域各国を調整することによって,未だこの地に存在しない集団的安全保障体制を構築することであると思うからです。
日本がその役割を果たすにおいて,憲法9条を有し,これを順守することが制度的に保障されており,それ故に決して自ら加害せず,平和主義にのっとった専守防衛に徹するのだということを,世界各国に向かって明示でき,信じてもらえることは,日本にとって大きなアドバンテージになるものと私は思います。
繰り返し私は,憲法9条だけで平和が保てるという考え方があまりに単純な理想論であること,軍事力なくして平和は維持できないことに,異論はありません。しかしだからといって,軍事力があれば平和が維持できるというのもまた,あまりに世の中を単純に見すぎていると,思います。軍事力を保有したうえで,それを行使ではなく抑止に使うためには,より広範な安全保障体制を一から築くためには,非常に多くの国々,非常に多くの人々を説得する政治力が必要です。日本がその政治力を行使するための旗印は,今後も憲法9条であり続けるべきだし,憲法9条しかないし,それは一見理想論に見えて、実は極めてまっとうな現実論なのだと,私は思います。
新たな安全保障体制の構築を要する世界の変化という現実に対応しながら,しかし,堂々と憲法9条の理想を掲げ,自らの歴史と実力と政治的立場を直視して,決して自らは加害に加わらない平和の使徒としての立場から,新たな世界秩序構築の一翼を担う政治を私は目指したいと思います。
戦勝国が敗戦国に対し、主権を奪った状態で法制度を改編することは国際常識として違法であることを弁護士である貴方は知らないようですね。
現行憲法は違法に押し付けられたものであり、主権回復後の日本人が自主憲法の制定、若しくは明治憲法を踏まえた改憲をしないことが根本矛盾です。
ハーグ陸戦条約第43条:国の権力が占領者の手に移った場合、占領者は占領地の現行法律を尊重し、施せる一切の手段を尽くさなければならない。
分かりますかねえ。。。
「通りすがり」さん、コメントありがとうございます。
「戦勝国が敗戦国に対し、主権を奪った状態で法制度を改編することは国際常識として違法である」も、ハーグ陸戦条約も、それこそ理想論ですよね。
世界中の国がその理想論を守ってくれるなら、憲法9条の理想論も間違いなく通りますから、日本は何の心配もなく憲法9条を掲げればいいだけではないでしょうか。憲法9条を理想論だと非難する方の多くが、なぜかアメリカには、国際法の理念を心底遵守して、敗戦国に完全に自由な選択を認める理想国家でなければならないと主張するのは、自己矛盾と言うものでしょう。
現実には、アフガンでもイラクでも、アメリカは、国連等での政治力を駆使して、とりあえず手続き的には正当化できる方法で、これらの国が再び戦争を起さないような方法で主権を回復しています(結果としてうまくいっていない場合も多々ありますが)。それが国際社会の現実と言うもので、それ以上を望むのは望みすぎと言うものです。
日本国憲法も、GHQが草案を作っただけで、手続き上は日本人の手で提案され、明治憲法を改正したものとして、日本の議会で承認されていますので、手続き上ご指摘のような問題はどこにもありません。そのような手続きを超えて、戦勝国が敗戦国に、国際法の理想に沿って、完全な自由を与えなければ納得できないというのは、繰り返しあまりに中二病な理想論にすぎないものと私は思います。
世の中に理想と現実があるように、国際社会にもまた理想と現実があります。日本はその中で、高い理想を掲げて、しかし現実を見失わず、歩み続けるべきものと思います。
米山様
初めまして。Morganと申します。
ブログをご拝見させて頂きました。
戦後日本国における憲法9条の立ち位置、大変分かり易くまた現実的に書かれており、とても読みやすい内容でした。
ブログとして発信して頂き、誠に有難う御座います。
人口増加率、経済成長率、GDP、貿易収支、中央銀行外貨準備高、金融政策等を数年規模かつ単純なフェルミ推定等で見比べるだけでも、米国から見れば中国は侮れませんね。
勿論我が国日本から見てもです。
仰る通り中国以外連合政策の是非をそろそろ明確にして行かなければならない時代ですね。
”狡猾な外交”という言葉は余りにもストレートな表現ですが、そういった側面を今後はより一層深くし、引き出しを増やして行かなければならないのでしょうね。
長文失礼致しました。
暑い日が続きますので、先生もお体にはどうぞご自愛下さい。
よく憲法第9条が出てきますが、それ自体は世界に誇れるいい憲法だと思っている人が多いと思います。
ただ、第二項を改正する必要があるのではないかという人が多くなってきてると思います。
それが実際は憲法第9条自体を変えるなんて・・・みたいな方向に持っていくために利用されているような気がします。
印象操作を避けるためにもその辺もしっかりとしておいたほうがいいような気がしました。
すいません、超久しぶりに拝見したので遡ってみていません。
今までにされていたのなら気にしないでください。
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